30 December 2010

品川二社巡りで禊払い (2) 品川神社


仕事納めの日に会社の近くで禊払い(2)
品川神社



今回の禊払いプチ旅行。
荏原神社の次は、第一京浜沿いに鎮座されている品川神社へ。
「昭和」の臭いプンプンな商店街を抜けて、第一の鳥居である(!?)
『サクセス品川鳥居』の先の高台に品川神社は鎮座されております☆

品川神社は、「北の天王社」と称され、新東京八名勝に指定されている。
一見すると、とてもご立派な雰囲気を醸し出している。
大鳥居の支柱には、やはり龍神の彫刻が施されている。
水害に悩ませてきた過去の品川宿の歴史を感じずにはいられない。
尚、品川の名前の由来は、目黒川の別名であるとする説、高輪に対して品ヶ輪とした説など様々ある。

そして境内へ。
石造鳥居は慶安元年(1648)に作られたもので、東京都内では上野東照宮に次いで二番目に古いもの。

御祭神は、天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト・・・天太玉命の后神)、素盞嗚尊(天王様・・・スサノオ) 宇賀之売命(お稲荷様・・・ウカノメノミコト)の3神。
こちらは拝殿。
すでに初詣の準備がなされていた。

さて、御由緒によると・・・

今からおよそ八百年前程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市 安房國一之宮洲崎神社)の天比理乃咩命を統治に勧請したのが創始とされている。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の元応十年(1478)に太田道灌公が「
素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りした。

また、寛永十四年(1637)、徳川三代将軍徳川家光により東海寺が建立され当社がその鎮守を定められ「御修覆所」となり、二度の焼失(元禄・嘉永)時にも時の将軍により再建され、徳川家の庇護をうけた。
その後、明治元年には明治天皇より、「准勅祭社」と定められ、大東亜戦争の折は、幸いにして戦火を逃れたが、社殿の老朽化に伴い、昭和三十九年(1964)に現在の社殿が再建された。
(以上、品川神社御由緒より)

こちらは本殿で流造りの建築。
コンクリート製の壁がモダン・・・というか。


神社脇には板垣退助のお墓があったり(どうもお墓だけは写真に収められません・・・)したが、社殿から見て右側の下り坂をくぐると、『(一粒萬倍!)阿那稲荷社』が鎮座していた。

境内に上社と下社が鎮座していて、特におもしろかったのが下社。

社殿内には『一粒萬倍(いちりゅうまんばい)の泉』があったりしておもしろい。
意味としては・・・

「万物は『天・地・水』の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。
当稲荷神社は「上社」が「天の恵みの霊」を、「下社」が「地の恵みの霊」と「霊泉」をお祀りする。
家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの霊水をそそぐが吉。
また、持ち帰りて家・店の入り具と・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。
そそぎし銭の一部は門前の商家にて使用するが吉。」

・・・らしい。


尚、この神社には富士塚(品川富士)もあったりして、江戸時代に隆盛を極めた面影のある『エンターテインメント的』要素が豊富な神社であるな、感じた。

ちなみに、品川富士の麓には『ぶじかえる』の石像が・・・ケロケロ♪

ということで、折角なのだから『品川富士』に登ってみた。

富士塚には幼少時代の思い出がある。
実家の近所の浅間神社に小学生の頃登って、穴の中に入ってみたり、頂上に登ったりして遊んでいたら、ハチの大群と遭遇してしまい、思いっきり数か所も刺されてしまった。

患部がどんどん膨れ上がって、物凄く痛くて泣きそうになっていたら、神社の宮司さんが駆けつけてきてくれて、治療してくれた。

今度実家に帰ったら、その神社に参拝してみよっかな、と「品川富士」を登りながらノスタルジックな感傷にふけていた。

そして、頂上へ。
眼下に広がる北品川の町並み、そしてその先にある『職場』の天王洲。
弊社のビルもしっかり見える品川富士の頂上の景色を眺めながら、2011年への希望と不安が交錯していた。

たとえ留まるとしても、未開の地へ冒険するとしても、とにかく「前を向いて、地に足を付けて」進んでいこう。
そう意を決して、富士塚を下山した。

ちなみに・・・個人的には『荏原神社』の方が古の神社らしくて好きでした☆

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