31 December 2010

王子界隈を歩いてみた -1 王子稲荷と装束稲荷


王子界隈を歩いてみた-1
王子稲荷神社と装束稲荷神社 : 『大晦日の狐火』



大晦日にちなんで、王子稲荷神社と装束稲荷神社、
そして王子神社の参拝記でも。。。

さて、いよいよ2010年も残すところあと一日。
皆様は楽しい一年だったでしょうか?

私は・・・そっとしておいてて下さい(苦笑)

さて、この『神社ブログ』(と化してしまった←)2010年の締めくくりとして、北区王子にある「王子稲荷神社」について、ご紹介したく思います☆

上の絵は、江戸時代の浮世絵、
安藤広重作 名所江戸百景~『王子装束ゑの木 大晦日の狐火』。
(wikiからCopy Free 画像を使用しました)

この浮世絵の舞台地が・・・

此処、装束稲荷神社であったとされている。

今から約千年の昔、この附近一帯は野原や田畑ばかりで、その中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷である。

この神社にある榎の木の下に数多くの狐がやってきて、衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したという伝承があることから、木は装束榎と呼ばれていた。
狐たちがともす狐火によって、 地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占った。

これが『大晦日の狐火』の起源である。

昭和四年(1929年)、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移された。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられた。

尚、ボクが参拝した日は、お祭り真っ只中!
当然「油揚げ」など、狐に纏わる食べものが出店で売っていた。
ちと、見にくいけど、御神木の装束榎が立っている。
・・・祭りの邪魔になるといけないので、王子稲荷神社へ移動することにした。

尚、メイン・ストリートは、狐火祭の提灯が数多くぶら下がっていた。
王子にとっての一番重要な行事のひとつなのであろう。

装束稲荷から歩く事10分。
王子神社の上に、稲荷神社が御鎮座されていた。
両脇には幼稚園があるのだが。。。
なので、本門をくぐるのは、土日祝日のみと決められている。

王子稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神 宇氣母智之神 和久産巣日神の3神とされている。
康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂き、小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。

現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの。
ちなみに、落語「王子の狐」の舞台でもある。



拝殿をパシャリ。
尚、入場すると、『額面著色鬼女図 』等といった貴重な天井画を拝むことが出来る。

この王子稲荷神社。
王子地区だけに親しまれただけでなく、社伝に「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 と伝承する。

この当時の「関東」とは、遠く陸奥国まで含む「東国三十三国」をさす。

以降、江戸中期までは神域に「東国三十三国」の幟、扁額を備えていたが、寛政改革時に幕府の行政干渉によりそれらの没収を受けてより、せまく「関東八州」の稲荷の総社とのみ観光紹介に許されたため、関八州稲荷の頭領として知られるようになったのが経緯であるが、「東国三十三国」の稲荷の頭領というのがもともとの正しい伝承である。


ここは本宮社の社殿。
稲荷神社自体、中世以降の民間信仰と仏教との習合から派生したものであるので、いまいち分からない(苦笑)

拝殿⇒本宮の先には、『御石様』の祠がある。

この石は、願い事を唱えながら持ち上げて、その軽重によって占う石。
京都伏見稲荷神社の奥宮にも同じように重さで占う「おもかる石」がある。
・・・きっと京の都の代表的な伏見稲荷神社を模倣したのかな、と想像。

2011年は自分自身、そして僕を取り囲んでいる世界中の人達に『幸』が訪れる事を心から祈っております☆

では、よいお年を・・・。

30 December 2010

品川二社巡りで禊払い (2) 品川神社


仕事納めの日に会社の近くで禊払い(2)
品川神社



今回の禊払いプチ旅行。
荏原神社の次は、第一京浜沿いに鎮座されている品川神社へ。
「昭和」の臭いプンプンな商店街を抜けて、第一の鳥居である(!?)
『サクセス品川鳥居』の先の高台に品川神社は鎮座されております☆

品川神社は、「北の天王社」と称され、新東京八名勝に指定されている。
一見すると、とてもご立派な雰囲気を醸し出している。
大鳥居の支柱には、やはり龍神の彫刻が施されている。
水害に悩ませてきた過去の品川宿の歴史を感じずにはいられない。
尚、品川の名前の由来は、目黒川の別名であるとする説、高輪に対して品ヶ輪とした説など様々ある。

そして境内へ。
石造鳥居は慶安元年(1648)に作られたもので、東京都内では上野東照宮に次いで二番目に古いもの。

御祭神は、天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト・・・天太玉命の后神)、素盞嗚尊(天王様・・・スサノオ) 宇賀之売命(お稲荷様・・・ウカノメノミコト)の3神。
こちらは拝殿。
すでに初詣の準備がなされていた。

さて、御由緒によると・・・

今からおよそ八百年前程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市 安房國一之宮洲崎神社)の天比理乃咩命を統治に勧請したのが創始とされている。

やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の元応十年(1478)に太田道灌公が「
素盞嗚尊(天王様)」をそれぞれお祀りした。

また、寛永十四年(1637)、徳川三代将軍徳川家光により東海寺が建立され当社がその鎮守を定められ「御修覆所」となり、二度の焼失(元禄・嘉永)時にも時の将軍により再建され、徳川家の庇護をうけた。
その後、明治元年には明治天皇より、「准勅祭社」と定められ、大東亜戦争の折は、幸いにして戦火を逃れたが、社殿の老朽化に伴い、昭和三十九年(1964)に現在の社殿が再建された。
(以上、品川神社御由緒より)

こちらは本殿で流造りの建築。
コンクリート製の壁がモダン・・・というか。


神社脇には板垣退助のお墓があったり(どうもお墓だけは写真に収められません・・・)したが、社殿から見て右側の下り坂をくぐると、『(一粒萬倍!)阿那稲荷社』が鎮座していた。

境内に上社と下社が鎮座していて、特におもしろかったのが下社。

社殿内には『一粒萬倍(いちりゅうまんばい)の泉』があったりしておもしろい。
意味としては・・・

「万物は『天・地・水』の恵みを受けて生成化育し、米は一粒の種より萬倍の稲穂となる。
当稲荷神社は「上社」が「天の恵みの霊」を、「下社」が「地の恵みの霊」と「霊泉」をお祀りする。
家門・家業の繁栄を祈り、印鑑・銭にこの霊水をそそぐが吉。
また、持ち帰りて家・店の入り具と・四隅にそそぎ、清く明るき心を持って暮らし・商売するが吉。
そそぎし銭の一部は門前の商家にて使用するが吉。」

・・・らしい。


尚、この神社には富士塚(品川富士)もあったりして、江戸時代に隆盛を極めた面影のある『エンターテインメント的』要素が豊富な神社であるな、感じた。

ちなみに、品川富士の麓には『ぶじかえる』の石像が・・・ケロケロ♪

ということで、折角なのだから『品川富士』に登ってみた。

富士塚には幼少時代の思い出がある。
実家の近所の浅間神社に小学生の頃登って、穴の中に入ってみたり、頂上に登ったりして遊んでいたら、ハチの大群と遭遇してしまい、思いっきり数か所も刺されてしまった。

患部がどんどん膨れ上がって、物凄く痛くて泣きそうになっていたら、神社の宮司さんが駆けつけてきてくれて、治療してくれた。

今度実家に帰ったら、その神社に参拝してみよっかな、と「品川富士」を登りながらノスタルジックな感傷にふけていた。

そして、頂上へ。
眼下に広がる北品川の町並み、そしてその先にある『職場』の天王洲。
弊社のビルもしっかり見える品川富士の頂上の景色を眺めながら、2011年への希望と不安が交錯していた。

たとえ留まるとしても、未開の地へ冒険するとしても、とにかく「前を向いて、地に足を付けて」進んでいこう。
そう意を決して、富士塚を下山した。

ちなみに・・・個人的には『荏原神社』の方が古の神社らしくて好きでした☆

29 December 2010

品川二社巡りで禊払い (1) 荏原神社と天王洲の由来


仕事納めの日に会社の近くで禊払い(1)
荏原神社



仕事納めだった本日29日。
会社近くの神社へお参りし、数多くの禍や過ちを悔い改めて、新しいココロで2011年を迎えたいと思い、近くの神社へ参拝することにした。

まずは、職場のある天王洲アイル。
夜になると、残業によるライトアップがキレイです☆

ちなみに、ここ品川天王洲は、英国ロンドンのカナリーワーフという再開発地区と少し似ている。
19世紀後半、品川宿は宿場町として栄え、多くの行商人が泊まる安宿や食事処が軒を連ねる庶民的な町であったが、中国vs英国のアヘン戦争以降、ロンドン・イーストエンドと同様『アヘン窟』と化してしまい、アヘン中毒者達が町を徘徊し、無法地帯と化していた・・・。

・・・真っ赤なウソです!!

本当は・・・

凡そ一三〇〇年の昔より、荏原神社の氏子区域である天王洲は、昭和初期までは海でした。
室町時代、霊夢によって海面に神々しい光を放つ牛頭天王(須佐男之神)の御神面がこの地で見つけ出されたことから、御神域として禁漁区となり、京都の祇園祭に倣う神輿洗いの神事がおこなわれるようになりました。

このことから、名もなき海域が天王洲と呼ばれるようになり、時代の移り変わりとともに様々な変遷をたどって、現在では、荏原大神様のご加護のもと、近代的なビルが立ち並ぶ東京の新名所として知られています。
(荏原神社公式HPより)

・・・(ほんの)少し感動


・・・と、くだらない話はこの位にして、いざ荏原神社へ。
社務所でしっかりと御朱印を頂きました☆

さて、ここ荏原神社は北品川にあり、旧称を天王社、貴布彌大明神(品川貴船社)等と呼ばれていた。
尚、品川には天王社が二つあり、品川神社は「北の天王」、荏原神社は「南の天王」と呼ばれる。
旧社格は郷社で、東京十二社(准勅祭社)として定められた経緯もあり、都内では由緒ある神社である。

主祭神は 高龗神(タカオカミ)、豊受姫之神(トヨウケヒメ)、天照皇大神(アマテラス)、須佐男之尊(スサノオ)、手力雄之尊(アメノタヂカラオ)の5神。

龍神で『水の神』である高龗神(タカオカミ)は、日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神(イザナギ)が迦具土神(カクヅチ)を斬り殺した際に生まれたとしている。


『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
ちなみに、社殿にも屋根から龍がヒョッコリ、そして妙にリアルに顔を出していた(笑・・・上の写真参照)。

こちらは社殿。
現在の社殿は弘化元年(1844年)のもの。

由緒
荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古くから品川の龍神さまとして親しまれた古式ゆかしい神社。

こちらは本殿。
往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していたが、明治8年、荏原神社と改称。旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した社号になった。

康平5年(1062年)、源頼義・義家は前九年・後三年の役での奥州安倍氏征伐に際し、当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を浄める。
以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、品川の総鎮守として崇敬されている。
(以上、荏原神社御由緒書より)

上述した大國魂神社の例祭(くらやみ祭)については、大國魂神社の御由緒にて、次のように記されている。

『例祭諸神事・品川海上禊祓式 四月三十日
早朝、品川区北品川、荏原神社に到り、舟に乗って海上に出て、潮水を汲み上げ身を清め、潮水を汲み取り社に参向し、大祭の無事を祈願し、その潮水を携えて帰社する。
この日より、宮司以下毎朝潮水に浴して身を清め鑚火(キリビ)を起こして潔斎に籠る』

・・・なかなか、古式ある神社なのですね☆

神社脇に鎮座されている末社。
画像を拡大すれば、どの神様を祀っているのか分かります。

そしてここ、荏原神社の例大祭は『天王祭』と呼ばれている。
(9月9日に開催)

「天王祭は宝治元年六月、京都八坂神社より牛頭天王が当社に勧請されたことに始まります。
江戸時代には大江戸夏祭りの花形として盛大を極めました。
現在においても都内で唯一、御神面を神輿につけての海中渡御が行われており、荏原天王祭~かっぱ祭りとして、全国に知られています。

荏原天王祭は、御神面の須佐男之神が水神様でもあり、「かっぱ」が水神様の使いであることから、祭礼に参加する崇敬者たちを「かっぱ」になぞらえ、俗称として「かっぱ祭り」と呼ばれるようになりました。」

・・・とのこと。

神社の前に流れる旧目黒川。

かつて、この地区に流れる川や海には『荒ぶる神』が住民地域一体に猛威を奮っていたからか、北品川地区には『龍神信仰』が残っているよう。
しかし、近代ビルが立ち並び時代の変遷を経てもなお、こういった信仰が地元氏子達守られていることを知り、少し安心した。


・・・次回は、品川神社です☆

27 December 2010

武蔵国総社 大国魂神社


武蔵國総社 大國魂神社





この日はちょうど平日の通院日に参拝したので、予想していた程参拝客がいなかった。
よって、「じっくり・ゆっくり」と境内を周る事ができた^^

京王調布駅から歩いて数分の場所に鎮座されている。

大鳥居から伸びる参道は、提灯づくし!
かなり圧倒されました!!

こうやって見るとなかなか荘厳ですね☆
尚、武蔵野線の府中本町駅と調布駅の近道にもなっているので、ただの通行客が多かった。

そして、随神門が・・・

「ない・・・」

残念ながら修繕中の為、ベニヤ板で覆われた門をくぐらなくてはいけなかった(涙)
まるで高校の文化祭で見受けられるような門構えであった・・・。

写真にあるのは随神門の先にある中雀門で、大正9年建立の門。
(ちなみに随神門は享保20年(1736)川崎定者により奉納されたという歴史ある門)

そして、拝殿へ。
流造のこの拝殿は、明治18年に改築されて、昭和53年に改修されたもの。

この辺で、大國魂神社の御由緒について・・・

御祭神は大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。

この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神でむかしこの国土を開拓され、 人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、 天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵[ににぎの]尊にたてまつり、 出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。

当社の創立は、景行天皇四十一年(111年)五月五日で、当時は出雲臣天穂日命[のおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて武蔵国造に任じられ、代々神社に奉仕したが、大化の改新によって、武蔵国府をこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。

また、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵の国中の神社へ1か所に集めてお祀りした。
是が武蔵総社といわれる起源であり、左右の相殿(本殿)に、武蔵国内著名の神社六所(小野大神小河大神氷川大神秩父大神金佐奈大神杉山大神)を合祀したので、六所宮と称せられるようになった。

鎌倉幕府並びに北条・足利両氏も篤く崇敬し、徳川家康が江戸に幕府を開くと共に殊に崇敬の誠を尽くし、神領地五百石を寄附せられた。
正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、 慶応年間に檜皮葺[ひわだぶき]が銅葺に改められた。 又、本殿は都文化財に指定されている。

明治元年(1868)准勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。

本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、 又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが 明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。

(以上、神社略誌及び公式HPより抜粋)


こちらが本殿。
本殿の歴史について・・・

治承4年(1180)源頼朝 六所大名神に参詣し神馬及び矢を奉納と「源平盛衰記」に記されているので、此の時点より以前に本殿が建立されていた事がわかる。
天正18年(1590)火災(兵火により社殿をことごとく焼失)

慶長11年(1606)六所宮の造営を開始(徳川家康の命による)
正保3年(1646)正保の大火災(重要文書等が焼失される)

寛文7年(1667)現在の型の社殿を建立(徳川家綱の命による)
慶応3年(1867)大修理(老朽化の為と思われる)
昭和43年(1968)修復(昭和40年9月の台風で崩壊した故)

室町時代末期の神社建築としては、三殿一棟は特異である。
構造は三間社流造の社殿三棟を横に連絡した相殿造となっている。
(公式HPより抜粋)

尚、一棟三殿の本殿には、

東殿 : 一之宮 小野大神 (現:小野神社~東京都多摩市)
二之宮 小河大神 (現:二宮神社~東京都あきる野市)
三之宮 氷川大神 (現:氷川神社~さいたま市大宮区)

中殿 : 大國魂大神、御霊大神、国内諸神

西殿 : 四之宮 秩父大神 (現:秩父神社~埼玉県秩父市)
五之宮 金佐奈大神 (現:金鑚神社~埼玉県神川町)
六之宮 杉山大神 (現:杉山神社~横浜市緑区)

が祀られている。

ちなみに、現在は、一般的に氷川神社が武蔵一之宮で、金鑚神社が二之宮なのだが、これは室町時代に成立した『大日本国一宮記』にて、氷川神社が一宮とされており、室町時代以降、当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したのではないかと考えられている。

上の写真は『鼓楼』という塔。
昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。
お寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。

慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された、しかし正保三年(1646)の火災で焼失、約200年余後嘉永7年(1854)再建されたとの事。
(公式HPより抜粋)

こちらの石は本殿脇に奉納されていた『さざれ石』。
平成5年の皇太子殿下御成婚記念として奉納された。

「さざれ石は、石灰石が雨水に溶解し膠結物質となり小粒石を凝結した石灰質角礫岩(かくれきがん)で、長年を経て小粒石が巖(いわお)に固結し苔むす様は、一家、町、国と集結し幾千代まで栄え幾人間の協調発展の精神に比喩され、算賀を祝し長寿を祈る嘉句として国歌や古今和歌集に詠まれている」
(境内説明より)

こちらは神楽殿。
紅葉と広葉樹の緑色の葉との色合いが美しい。

大鳥居脇にある稲荷神社(神戸[ごうど]稲荷神社)
落葉の柔らかな絨毯の上に乗った朱色の鳥居。

とても日本的で、四季情緒溢れる風景を見ると、心がいつしか平穏になる。

そして、最後は府中街道と旧甲州街道の交差点にある御旅所。
五月五日の夜、八基の神輿渡御があって、献饌、奉幣等神秘の儀式を行うらしいです。

以上、大国魂神社についてでした。