6 January 2011

信濃探訪 : 守矢史料館 一子相伝の古代諏訪口伝


古代諏訪の土着信仰を伝える

神長官守矢史料館(1)



諏訪大社上社本宮と前宮との中間地点に、守矢史料館がある。
この付近は高部という集落で、数多くの遺跡や史跡などがあり、諏訪地方の縄文時代~中世の神事などが凝縮されたディープな集落なのである。

この守矢史料館は、諏訪大社上社の神長官を務めてきた守矢一族が代々守ってきた古代神事や、戦国時代の武田家、村上家、真田家などの書状、そして江戸時代中期に菅江真澄によって、描かれた御頭祭の神饌の実物復元等・・・と、内容盛り沢山の史料館。

立派な門構えの玄関。
左側には「祈禱殿」という建物がある。
明治5年に神職の世襲が禁じられたために、一度壊されたが明治20年に再建。
守矢家の言い伝えでは、祈禱殿の中で深夜に一子相伝が口伝によって行われていたという。

これが外観。
有名な建築家、藤森照信氏が手掛けた初の建築作品らしく、建物内の構造とかを見に来る関係者も多いとか。

まずは、守矢家代々に伝わる一子相伝のお話について。

一般的に諏訪地方は「古事記」による国譲り神話とは別にもうひとつの土着神話がある。

それによると、大和朝廷による日本統一以前、出雲系の稲作民族を率いた建御名方命(タケミナカタノミコト)が諏訪にやってきた時、以前から暮らしていた洩矢神(モリヤノカミ)を長とする先住民族が天竜川河口で戦い、洩矢神は負けてしまった。

この洩矢神が守矢家の先祖神と伝えられている。

出雲から侵入した建御名方命は諏訪大明神となり、ここに現在の諏訪大社の始まりとされている。
尚、出雲族は先住民族の洩矢神を邪神として扱わずに、今でいうところの懐柔政策をとった。

よって、建御名方命の子孫である諏訪氏が、諏訪大社の大祝(おおほうり)という生神の位につき、洩矢神の子孫である守矢氏が神長という筆頭神官の位に就いた。

こうして、諏訪の地には、大祝と神長による独特の諏訪祭政体は古代、中世と続いた。
*注釈:洩矢神は石木の神とされ、他に蛇神のソソウ神、狩猟の神チカト神などが土着信仰としてあったらしい。

サナギ鈴
そして、諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝に降臨する精霊である。
後に紹介する前宮と神殿、そして冬季に掘られた竪穴である御室(みむろ)や十間廊、八ヶ岳山麓の御射山で、数多くの神事が行われた。

その中で最も有名な諏訪古代信仰のルーツである『御頭祭』の復元がこの史料館で展示されている。

御頭祭は春の祭りだが、それに先立ってミシャグチ神は、冬になると前宮に作られた御室という竪穴住居の中に、巨大な蛇体と大祝(ヒト)が一緒になって冬籠りをする。

そして、三月になると、ミシャグチ神は、草木や動物の目覚めと共に、地上に甦ってくる。

諏訪大社前宮にある十間廊に、鹿の頭が75頭と春に芽吹く植物を神に献じ、神人一体となって食べて饗宴を催する。

そして、江戸時代の博物学者であった菅江真澄の時代の御頭祭で、儀礼的に行われた御贄柱(上の写真)に『おこう』という紅の着物を着た八歳の子供を縄で縛りつけていた。
(かつては人身御供として『おこう』は殺されたと伝えられている)

御贄柱は、今も7年に一度催されている行われている御柱祭に近似しているように思える。
また、括りつけられた「サナギ鈴(鉄鐸)」は、古代出雲の象徴のひとつであった銅鐸の面影を残しているように思える。
因みに「諏訪の七石」と呼ばれる巨石は御頭祭時に御霊代が居た地だったらしい。

75頭が下の前宮十間廊に並べられたという・・・。
さぞかし、十間廊は御頭祭の時には血生臭かったのだろうな・・・。

ちなみにこれが75頭の生首が並べられた十間廊(諏訪大社上社前宮)。

そして、これらが菅江真澄のスケッチを元に復元された御頭祭の神前供物。
ウサギの串刺しの横には、猪の頭皮を焼いた焼皮が吊るされ、写真に収めなかったが、脳和(のうあえ)という鹿の脳に鹿肉を和えたものが供物とされていた・・・。

ちなみに中世以降、仏教の影響により、肉食の風習を忌むようになっていたが、鉄砲打ちの猟師たちが、「諏訪講」というのを作って、諏訪信仰の御札を持てば食することができるのを許された。

これが諏訪神社が全国に点在している理由のひとつであるとされている。

縄文文化が今だに残っているディープ・アンダーグランド~諏訪。
知れば知る程、ハマってしまう事必至な地である。


次回は・・・史料館の周りについてです☆

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