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Showing posts from March, 2011

相模国の風景 大磯~真鶴半島

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実は先週末・・・
相模國再訪しましたー♪

この回(1月)は東海道本線中心でしたが、先週は小田急沿線(大和~伊勢原~松田方面)を巡っていました☆
近々に画像をUPしてみますので、しばしお待ちを~♪
(しかし出番待ちのお社が多いので本編はいつになるのか未定^^;)


さてさて風景写真も多く撮影したので、折角だからまとめてドーン!

川勾神社の近くで撮影した富士山
富士山を見ると、胸躍るのは日本人だからかな?

東海道線の車窓より

青々とした海
RideのNowhereのアルバム・カヴァーを思い起こす

貴船神社参拝後、さらに高台を登ったら
真鶴港の絶景が!

波打った蒼い海と
橙色に染まり始めた空のグラディエーションが美しい

迷子になってしまったが、パシャるのはやめない(笑)

真鶴半島全景
とっても小さな半島なのです☆

丹沢山地に沈む夕日
とっても美しいですね♪

脇に立っていた松の木とともに

・・・この後、真っ暗になり(ほぼ山道を)方角も分からず
彷徨っていたのは私ですが、何か?


次回は『キノミヤ』を追いかけて第一弾です☆

相模國古社巡り -5 相模國二之宮 川勾神社

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相模國古社巡り
5 川勾神社
(神奈川県中郡二宮町山西2122御鎮座)


神奈中バスに揺られて、「押切坂上」で下車。
テクテクと上り坂の道を歩く。
真冬だったが、日差しが優しくボクを照らしてくれたおかげで、そんなに寒く感じない。

道中発見した石像。
写真では全く何か分かりにくいが、道祖神像でした。

社頭
バス停から徒歩20分程で川勾神社に到着。
鳥居の門構えに、お正月の佇まいを感じる。

鳥居をくぐり、石段を登っていくと・・・


藁葺の神門がお姿を現した!
とても古風ゆかしい門構えで、とても渋い。

そして、境内へ。
『芽の輪(ちのわ)』がデーンと鎮座していた。

大祓とは、犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)という。
(一般的には6月の大祓が有名)

2010年はロクな年でなかったので、幸ある2011年になる為に、しっかりと輪抜けさせて頂きました^^

社殿 御祭神
大名貴命
大物忌命、
級津(シナツ)彦命・級津姫命(相模国が昔相武と磯長に分かれていた頃、磯長の国を御開拓された神)
衣通姫命(そとほりひめ)

御由緒
当社は相模国二宮で古くから『二宮大明神』と称し、延喜式所蔵の名社である。
十一代垂仁天皇(BC29~71)の朝当国を磯長国と称せし頃、その国造阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のため崇招せり。

日本武尊東征の時、源義家東下りの時に、奉幣祈願されている事から武将の崇敬深し。

人皇十九代允恭天皇(412-454)の皇妃衣通命皇子ご誕生安穏のため奉幣祈願あらせらる。
一條天皇の御宇永延元年(987)、栗田中納言次男次郎藤原景平、当社の初代神宮となり、璽末今日に及ぶ。

本殿裏手の御神域
社殿造営の沿革として記録に残っているのは、建久年間(1190~1198)源頼朝社領若干寄附し社殿造営の事あり、応永年間に兵火に遭ったが、応永三十年(1423)後北条氏により再建。

永禄四年(1562)上杉景虎小田原攻める時、兵火により焼失。またも元亀年間(1570~1573)北条氏によって再建。
特に小田原城から丑寅の方角に当社は鎮座している為、北条氏の鬼門守護神として格別崇敬が篤かった。
現在の社殿は昭和七年造営との事。


徳川の朝に至り、家康公名護屋出陣の際、祈祷札を献上殊の外喜ばれ御朱印地五…

相模國古社巡り -4 相模國総社 六所神社

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相模國古社巡り
4 六所神社
(神奈川県大磯町国府本郷935)

JR平塚駅から東海道線で二宮駅へ。

時刻はまだ12:00頃・・・。
神社の中に入るとのんびりするタイプなのだが、効率よく巡ることができ、さらに路線バスなども不思議な位にほぼ待ち時間なしに乗車することが出来た。

ということで、六所神社前に停車するバスも二宮駅下車時にたまたま停車していて、難なく目的地へ辿り着くことができた。

メイン街道沿いの大鳥居をくぐって、乗用車1台入るのがやっとのトンネルもくぐる。

すると、参道には樹齢600年と伝えられる大欅(ケヤキ)がデーンと立っている。
巨木好きなボクは、当然コブの箇所を撫でて、「元気にな~れ」と祈願しました☆

そして六所神社へ。
この神社は相模国総社として・・・

寒川神社祭神
川勾神社祭神
比々多神社祭神
前鳥神社祭神
平塚八幡宮祭神

の御分霊を勧請している。

この神社も大勢の参詣客で賑わっているせいか、なかなか写真がうまく撮れません。
なので、手水舎の龍の口の写真で御勘弁を。

ここは御神池に浮かぶ「六所ひぐるま弁天社」

この辺で御由緒をひとつ・・・

主祭神 : 櫛稲田姫命、須佐之男命、大己貴尊 「柳田大明神」と称される。
寒川神社祭神、川勾神社祭神、比々多神社祭神、前鳥神社祭神、平塚八幡宮祭神の御分霊を勧請

第十代崇神天皇の頃、出雲地方よりこの地に氏族が移住せられ、この地を『柳田郷』と名付け、氏族の祖神たる櫛稲田姫命、須佐之男命、大己貴尊を守護神とし『柳田大神』と称した。
御創建は崇神天皇甲申の歳と伝えられている。
大化改新後、国司の制度がはじめられゆく中、元生天皇の御代養老二年(718)に、石上台山頂より奉遷歴勅を以て相模国八郡神祇の中心たる、相模国の総社として現鎮座地に遷座。
その時より、柳田大神に、一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮の分霊を合わせ祀り相模国総社六所神社と称されるようになった。

拝殿
戦国時代には、戦国大名の小田原北条家の崇敬も大変厚く、また、後に関東を支配した徳川家康も此に倣い、六所領五十石(相模国では2番目の大きさ)寄進の御朱印状をよせ、以後歴代の徳川将軍も同様に五十石を寄進し明治に至っている。

本殿

現在の御本殿と社殿を支える石垣は、戦国大名北条家造営のもので、北条氏綱公が永正年間(1501~1520)に…

相模國古社巡り -3 平塚八幡宮

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相模國古社巡り
3 平塚八幡宮
(平塚市浅間町1-6御鎮座)

前島神社の次は、平塚八幡宮。
平塚駅前にあり、由緒ある古社のようなので参拝してみた。

正面鳥居と、鶴の神紋をあしらった巨大な提灯に驚かされた。
この日は澄み渡るような晴天、心躍る。

境内は・・・
ここも大勢の参詣客で賑わっていました><
有名な鶴岡八幡宮だったならば、さらに激混みだったんだろうな・・・。
なので、拝殿も端から申し訳なさそうにパシャリ。

こちらは拝殿脇にある摂末社。
左 神明社(御祭神:天照大御神、事代主神(えびす様)、徳川家康公)
中央 若宮社 (御祭神:仁徳天皇)
右 諏訪社 (御祭神:建御名方神)


そんな、平塚八幡宮の御由緒について・・・

平塚八幡宮は、應神天皇、神功皇后、武内宿禰命を御祭神に、その昔「鶴峯山八幡宮」と称し相模國一國一社八幡宮として、また「鎮地大神」と仰がれ、数多くの方がご参拝に訪れる。

社伝によると仁徳天皇の六十八年、この地方に大地震があり、人々の苦しみの様を聞かれた天皇が国土安穏を祈願して應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まり。

また、推古天皇の御代にも大地震があり、人々を案じられた天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営し、さらには天武天皇がこの地の税の三分の二を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を御奉納になりました。

寛永十四年筆録の八幡宮記、新編相模風土記によると、聖武天皇は『相州一国一社』の霊場として法華経を奉納。また東鑑によると、源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上し、徳川家康公は天正十九年社領を寄進、慶長年間には自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させた。

明和二年平塚宿の僧本誉還真が十八年間集めた浄財で青銅鳥居を奉献、奉賛者名は今も鳥居に刻まれて境内にある。
明和六年、官の達示により社名を「八幡神社」と改称。

大正十二年大震災があり、被害は大きく御社殿も崩壊したが、氏子、崇敬者の尽力のもと昭和三年に再建され、これが現在の御社殿となる。

青銅鳥居
昭和二十八年当社は神社本庁が包括する別表神社となり、昭和五十三年八月に現在の社名である平塚八幡宮へ改称、そして昭和五十六年には創祀千六百年を迎えた。
(以上、略記より抜粋)


次回は「二宮駅」へ。

相模國古社巡り -2 相模國四之宮 前鳥神社

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相模國古社巡り
2 前鳥神社
(神奈川県平塚市四之宮4-14-26御鎮座)


大混雑だった寒川神社につづいては、相模國四之宮とされている前鳥神社(さきとりじんじゃ)。
平塚駅からバスで約10分程で到着。
社頭
境内に広がる森と、その先の社殿の景色がとても爽快。

鳥居前に梵鐘があった。
『鐘を鳴らしてください☆』と、看板に書いてあったので、景気よく『ゴーーーッン!!』と鳴らしました(笑)

 これは恐らく御神木。
季節のせいか、葉は落ちているが春になれば新葉が現してくれるはず。
尚、社号標には『前取神社』と表記されている。

そして拝殿へ。
主に地元の参詣客で賑わいをみせていた。

そんなところで御由緒を。。。

(御祭神)
菟道稚郎子命
(うぢのわきいらつこのみこと・・・宇遅能和紀郎子)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
以上、三柱の神様をあわせて「前鳥大神」と称する。

前鳥大神(菟道稚郎子命)は、第十五代応神天皇の皇太子で、当時百済から来朝していた阿直岐(あちき)から帝王への道を学ばれた後、博士王仁(わに)を師として学問の道をひらかれた。

論語や千字文などの漢籍をわが国で最初に学ばれた方でもあり、帰化した渡来人技術者を篤く庇護し、俊秀の誉れから皇太子と定められたが、兄大鷦鷯命(おほさざきのみこと、後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、ついには兄君をたてて自らはお隠れになったと言い伝えられている。
(*古事記によると、早死されたとされている)

神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名から起こったと言われている。(ちなみに埼玉の見沼一帯と同様に、相模川を中心に平塚~厚木一帯は大きな湖沼だった)

奈良時代の天平7(735)年の『相模國封戸租交易帳」には「大住郡埼取郷」として記載されている。
この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられる。

本殿
延喜年間(901~923)に編纂された『延喜式』という法制書の中で全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当神社は「前鳥神社」と記され、相模国の十三座のひとつとして登載されている。
また、四之宮の称は、養老年間(717~724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に…

地震を鎮める要石のおはなし

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むかーし、むかーし、その昔。

鹿島の神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)・香取の神、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の二柱の大神は天照大神の大命を受け、葦原中国を平定し、香取ヶ浦に至った。

しかし、この地方はなお「ただよえる国」であり、地震が頻発して民はいたく畏れていた。
そして、この地には大きな鯰魚(ナマズ)が住みつき、荒れ騒いでいるとも言われていた。

二柱の神は『これはいかん!』と思い、、頭は鹿島の神、尾は香取の神が地中深く要石(石棒)を差し込み、鯰魚の頭尾を押えて地震を鎮めたんだそーな。

香取の要石は凸形、鹿島の要石は凹形になっている。

こちらは香取神宮の要石

あづま路は 香取鹿島の二柱、 動きなき世を なほ守るらし


この石は鹿島神宮の要石

揺ぐとも よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは

おはなしおしまい。

要石が全国的に有名になったのは、江戸時代の安政の大地震(1854年10月 M8.4)の時とされている。(江戸の下町を中心に約4300人の死者を出し、1万戸以上の家屋が倒壊した)

ちなみに地震が10月(神無月)であり、鹿島の神様は出雲に出掛けていて留守であったから地震が起きたという話の絵巻(タケミカヅチが『すんませーん(^人^)』って、周りの神々からバツの悪そうな顔をしている)が鹿島神宮の宝物館に展示されている。

尚、地震の象徴の大鯰は災いであると同時に富を生むとされている。
「鹿島要石真図」では復興のために、鯰の周りから小判や金槌や鉋(カンナ)といった建築資材が大鯰から散らばっている。

うーん、抜け目ない^^

内閣府の防災情報ページに載っているコラムはここ⇒Link
江戸っ子が自虐的(!?)に安政の地震を楽しんでいる絵図が書かれています☆

地震直後の品川(3月11日午後5時頃)
今回の震災で犠牲にあった方々、生きるための必需品が不足している被災地の方々に対して、お見舞いを申し上げます。

相模國古社巡り -1 相模國一宮 寒川神社

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相模國古社巡り
1-1 寒川神社~関八洲総鎮護
(神奈川県高座郡寒川町宮山3916御鎮座)

タイトルの通り相模國のお社を巡ってみようと急に思い立ち、夜明けと同時に家を出発し、いざ相模國一之宮寒川神社へ。ちなみに参拝日は1月9日でした☆

電車を乗り継いで相模線なるローカル線に乗り、宮山駅下車。
歩いて10分程で、寒川神社へ。

三の鳥居
神域の境である清流の上に太鼓橋が架かっていたが、あまりに人が多過ぎて殆ど掲載できそうな写真が撮れなかった。


こちらは、鳥居脇にある御神池。
ここから緑で囲まれた参道が続くが、やけに人(参拝客)が多い。
そして、境内に到着すると・・・



何という混みよう!!
恐らく「八方除」祈願目当ての行列なのだろう。

寒川神社は、古くより関八州の守り神として、また江戸の正裏鬼門をお護りするお社として、全国唯一の方位除・八方除の守護神として信仰されてる。(神社HPより)

到着時刻8:30頃なのに・・・(唖然)

尚、後方の神門には新年のみの名物(!?)「迎春干支ねぶた」が掲げられていた。

拝殿はとても大きく参拝客も大賑わい!
神楽殿などがない分、境内は広々としていて、開放感溢れる感じであった。

拝殿内をパシャリ☆
「八方除」祈願されているようだが、この拝殿の収容人数は216名!

かなーり驚いたところで、御由緒を。

御祭神は寒川比古命と寒川比女命。
ニ柱の神を祀り、寒川大明神と奉称している。

寒川大明神は相模国を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住など人間生活の根源を開発指導せられた関東地方文化の生みの親神様として敬仰されてきた。
わけても八方除の守護神として、地相、家相、日柄、方位、厄年等に由来するすべての災禍を取り除き、福徳開運をもたらす神様として信仰されている。


御神祭については古くより諸説あり、古代では寒河神といわれ、近世では八幡神(応神天皇)とされ、他にも菊理媛、素盞鳴尊、稲田姫命ともいわれてきた。

明治に入り『特選神名牒』の選があり、その際皇太神宮儀式帳に所載される末社牟彌乃神社(むみのじんじゃ)の御祭神が寒川比古命・寒川比女命であることにより、新たに御祭神にこの一説が加えられ、大正5年12月、御祭神は寒川比古命・寒川比女命二神と定められ、現在に至っている。


古代、相模川沿いは相模国造がおり、また社が高句麗系渡来人入植の地である高座郡に属する…