Posts

Showing posts from June, 2011

相模路をゆく -10 鎌倉宮 護良親王~岩窟内の土牢と草鹿式神事

Image
相模路をゆく
鎌倉宮 (2) 護良親王が幽閉された地



さて、後醍醐天皇の建武の新政といえば、古典「太平記」が有名だが、護良親王については由緒で書いた前号以外にも興味深い話があるようなので、勉強がてら綴ってみます。

護良親王は足利尊氏のみならず、 父・後醍醐天皇との確執があったらしい。 討幕戦争の際に討幕の命令を出した天皇を差し置いて 令旨を発したことに始まると言われている。
また後醍醐天皇の寵妃であった阿野廉子とも不仲で、 親王暗殺は廉子と尊氏が結託していたという。

伝承では鎌倉の土牢で護良親王が殺害されたおり、 雛鶴姫という寵姫が護良親王の御首級を携え、 甲斐国都留郡秋山村まで逃げ延びて息絶えた。
その御首級は石船神社に安置されていて、 年に一度「御首級」が公開されているらしい

この窟は護良親王が幽閉されていた牢で、 実際は東光寺跡にあったのを復元した
尚、雛鶴姫は護良親王の子を宿しており、 上洛の道中、甲斐國秋山村で子を出産したものの 産後の肥立ちが悪く他界されたという

建武元年十一月より翌二年七月二十三日迄、 約九が月の間ここに御幽居し給ふ。 (今より六百四十三年前・・・昭和五十三年) 薨去の御年 二十八 深さ 約四メートル 廣さ 八畳敷(四メートル四方)
(境内掲示板より)

その後、村人たちによって 淵沢に墓碑塚を築かれ、 現在は雛鶴姫を祀った 雛鶴神社が鎮座しているとのこと。

ここは護良親王の首級が 置かれたとされる場所。
御墓はこの所より250メートル程いった 山頂理智光寺跡にある。
伝承では雛鶴姫が産んだ皇子は小大塔宮・綴連皇子と呼ばれおり、 南朝方として各地を転戦しますが、後に敗れて衰退し、 転々と放浪した折に秋山村に辿り着き、 そこで天寿を全うしたという
何たる因縁なのだろう。

三宇御祭神 守永親王(右側の石) 後村上天皇(中央) 後亀山天皇(左側の石)
宇津峯山宇津峯城(星城)は 陸奥國に於ける南朝方の一大拠点で 鎮守将軍北畠信卿が次男守親卿と共に 後醍醐天皇の皇孫守永親王に奉して 興国元年から正年八年まで一三年間に亘り勤皇家に号令を発し 且つ戦はれた遺蹟である。
この神石は六百年昔の歴史を 今に物語る城跡の山岩として意義深い。
宇津峯山の偉容は歴史の歩みと共に 鎌倉宮にと移られ給ふの感有り。 (境内掲示板より)

阿野廉子の謀略により、父子の確…

相模路をゆく -10 鎌倉宮 境内と由緒、そして獅子頭守

Image
相模路をゆく
10 鎌倉宮 (1)

(神奈川県鎌倉市二階堂154御鎮座)



続いて参拝しに訪れたのは鎌倉宮。
鶴岡八幡宮から北東へ徒歩15分程歩いた地に鎮座している。
そしてようやく鎌倉宮へ到着。 笠木のみが朱色という珍しい鳥居が印象的。

緑深く、落ち着いた雰囲気。 このような趣きある神社に参拝できると、とても気分が良くなる。
さて、鎌倉宮は別名大塔宮と呼ばれ、建武中興十五社の一社である。
建武中興十五社とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社で、武家中心の社会を天皇中心の社会に戻そうとしたものであった点が、明治維新と類似しており、天皇親政に尽力された皇族をお祀りすべきという勅令のもと、明治天皇が創設した。

また鎌倉宮は 神社本庁の包括下には入っていない単立神社である。 神社本庁は、1946年、全国の神社関係者が結集して伊勢神宮を本宗とする包括宗教法人で、各都道府県に神社庁を置き、神道の宣布にあたっている。 しかし、伊勢式年遷宮の巨額の費用を奉賛金として全国傘下の神社に割り当てて強制的に課すため、自社の改修が手に回らない実像があるらしい。
また、財政健全化のために新事業を興そうとしても「異端」とみなされて、停止・改善を勧告されるらしい。
ちなみに名が知られている他の単立神社は、日光東照宮、靖国神社、武蔵御嶽神社、気多大社)、伏見稲荷大社、出雲大神宮、日前神宮・國懸神宮などがある。

鎌倉宮の創建当初からのお守りで、護良親王が兜のなかに忍ばせて地震の無事を祈ったことが由縁とされている御守り。

そんなところで御由緒を・・・
鎌倉宮は明治2年(1869)に後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりながしんのう)を御祭神として創建された神社です。
護良親王は延慶元年(1308)にご誕生になり、6歳の時、京都にある三千院に入られ、11歳で比叡山延暦寺に入室されました。尊雲法親王と呼ばれ、大塔宮とも呼ばれました。 20歳の時、天台宗の最高位である天台座主となられますが、父帝の後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の思いを遂げる為、還俗して名を護良と改め、戦いへと向かわれました。

鎌倉幕府が倒幕され、天皇親政が復活(建武の新政)すると、親王はその功績を認められ兵部卿・征夷大将軍の役職につかれます。
しかし、武家政権の樹立を目指す足利高氏との間で確執がおこり、親王…

相模路をゆく -9 鶴岡八幡宮 境内社など

Image
相模路をゆく 9 鶴岡八幡宮 其の二

本宮参拝後、折角だから境内を散歩してみた♪

丸山稲荷社 本宮奥にある稲荷社で、 本殿は鶴岡八幡宮の中で一番古い室町期の建物 国重要文化財に指定
11月8日の火焚祭では、鎌倉神楽が奉奏される。

仁徳天皇、履仲天皇、仲姫命、磐之媛命を祀っている。

現在の建物は徳川2代将軍秀忠の命によって 1624年(寛永元)に立て替えられたもの
尚、国重要文化財に指定されている。

八幡宮の元宮である 由比若宮(材木座に鎮座)を遥拝できる

鶴亀石
『相模国風土記稿』に 水をもって石面を洗う時は鶴亀の文様が輝くあらわれる と記されている大変めでたい石 (以上、境内掲示板より)

御祭神: 源頼朝公、源実朝公 黒塗の社殿が香取神宮のようで、力強さを感じる。
御祭神の御威徳にあやかり、 必勝祈願や学業成就の信仰が篤い神社である


参道を挟んで 左側(東)に平家池、右側(西)に源氏池がある
平家池には島が四つ、源氏池には島が三つあり、 それぞれの島の数が 源氏の繁栄(三=産)と、平家の滅亡(四=死) を現していると云われている
源氏池内に浮かぶ島には 旗上弁財天社が鎮座されている


次回は鎌倉宮へ~☆

相模路をゆく -9 日本三大八幡 鶴岡八幡宮

Image
相模路をゆく
9 鎌倉幕府宗社 - 鶴岡八幡宮


「相模国大山街道を巡る」の流れで、鎌倉~江ノ島~箱根旅行も併せて紹介してしまおう!
ということで、第一弾は鎌倉に鎮座されている鶴岡八幡宮を。

参拝した日はどうやら菖蒲祭が行われるようだったので、境内は慌ただしい様子だった。 やはり鎌倉はオフシーズンに行くべきでしたね。 因みにこの舞殿は元は若宮回廊跡で、静御前が舞を納めたという。
『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな』

源平池を横切るように作られている石造の橋で、創建当時は木造朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれたらしい。

大石段と狛犬。狛犬のお顔がとても可愛らしい♪
奥には大銀杏の大木があったが、平成22年3月10日に強風のために倒壊してしまった。 そして、丁度1年後に・・・
それは考え過ぎですかね・・・。

現在の本宮は文政11年(1828)に造営された流権現造りの江戸建築。 内部は撮影禁止なので、外観のみをパシャリ。

八幡宮と書かれた額の『八』をよく見ると、二対の鳥のように見える(と思う) これは八幡の神使である鳩が描かれている。 鶴岡八幡宮 御祭神 応神天皇、比売神、神功皇后
由緒
当宮は源頼義が前九年の役平定し、奥州より鎌倉に帰った後、康平六年(1063)報賽のため由比郷鶴岡(現在の鎌倉市材木座)に源氏の氏神として八幡大神を勧請したのがはじまりです。

その後、治承四年(1180)源頼朝公が鎌倉に入るや直ちに尾林郷北山(現在の地)に遷し祀り、建久二年(1191)には、大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の姿に整えられました。

鶴岡八幡宮は関東の守護、国家鎮護の神社となり、全国から崇敬を集め、各地に八幡宮(八幡神社)がお祀りされるようになりました。

現在の建物は、文政十一年(1828)造営の流権現造りの代表的な江戸建築です。 若宮(下宮)は、寛永元年(1624)に修復したもので、上宮と共に国の重要文化財に指定されています。

ご本殿をはじめ、静御前が舞をおさめた若宮廻廊跡に建つ舞殿、そして源平池等、境内の様々な史跡が800年を越える長い歴史を語りかけてくれるかのようです。 (以上、境内由緒及び参拝の栞より) 日本で一番多い…

相模路をゆく -8 相模國三宮 「冠大明神」 比々多神社

Image
相模路をゆく
8 相模國三宮 比々多神社

(神奈川県伊勢原市三之宮1468番地御鎮座)

相模路(大山街道編)も一旦ラスト。
最後は相模国三之宮 比々多神社へ。

東名高速沿いにあるバス停から歩いて約10分程の場所に鎮座されている。 この河川は鈴川。

鈴川沿いに備えられていた賽神様。 右側は間違いなく・・・(以下略)

小高い見晴丘の上に立派な鳥居と社殿が鎮座されている。 疲れ切った小生は、ようやく辿り着いた感で胸一杯。

とても厳かな雰囲気の社殿。 拝殿内では御祈祷が行われていたので、静かーに参拝した。

相模國三之宮 比々多神社
鎮座地 神奈川県伊勢原市三之宮1468番地

御祭神: 豊國主尊(豊斟渟尊) 国土創造の神
天明玉命 玉造りの神
雅日女尊 機織りの神
日本武尊 叡智と武勇の神
(相殿)
大酒解神(大山祇神) 酒造りの神
小酒解神(木花開耶姫)

旧地名 相模國大住郡日田郷三宮宮前埒面
「和名類聚抄」(十世紀前半)に、相模國大住郡に「日田」郷という地名が」見受けられる。

ここにも境内に梵鐘が・・・ 因みに長椅子をよく見ると、リスさんが両端を支えてくれています。 さらによーく見ると、ミッキーマウス(もどき)が・・・
由緒
比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当社の淵源は今から約一万年以上前まで遡れる。 論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石中(ストーンサークル)の「立石(メンヒール)」こそ祭祀遺跡であり御神体であり、原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰を現している。
「社伝記」(天保五年・1834)によると、御鎮座は初代神武天皇六年(BC 655)、人々が古くから祭祀の行われた当地を最上の地と選定、神を祀る社を建立し、相模國の霊峰大山を神体山とし、豊國主尊を日本國霊として祀ったことに始まるという。

崇神天皇七年の御代神地神戸を奉られ、大化元年(645)社殿修復の際、大酒解神・小酒解神が合祀、うずら瓶(県重要文化財)を納められた。 天長九年(832)六月国司橘朝臣峯祠を勅使として相模國の総社として冠大明神の神号を奉られた。
鎌倉時代にはいう将軍源頼朝が文治九年(1185)に国土安泰の御願書を奉う。
建久三年(1292)には妻政子の安産を祈り神馬を奉納された。南北朝時代に戦さに巻き込まれ神領の大半を失い衰徴し…

相模路をゆく -7 「伊勢原」地名の語源~伊勢原大神宮

Image
相模路をゆく
7 伊勢原大神宮

(神奈川県伊勢原市伊勢原3-8-1御鎮座)


続いては伊勢原市中心部にある伊勢原大神宮へ。

社頭
また大山詣での後だったので、少しお休みしたいな、と思い立ち寄った。 左手の朱色の鳥居のある社は、稲荷総社。 その他境内には末社として春日神社が鎮座されている。

境内
とても開放感のある境内。 二社の中央にある御神木がとても立派です。
ご祭神 内宮 天照大御神 外宮 豊受姫大神
由緒
当宮の創建は、江戸時代初期の元和年間(1615~1624)のことであると伝えられています。 元和六年(1620)伊勢の国の人・山田曾右衛門と鎌倉の人・湯浅左衛門は、大山参詣の途中、千手原という松原に一夜の宿を求めたところ、水音を聞いて開墾可能であることを悟り、当時この辺りを支配していた中原代官成瀬五左衛門の許可を得て、開墾に着手したのです。

内宮
そこにだんだんと粕屋あたりより人が集まり現在の伊勢原市街の基礎が形成されました。 曾右衛門は、この新しい開拓地の鎮守として、故郷である伊勢の神宮の神様を勧請し、奉祭することにしました。 こうして創建された当宮お御祭神に由来して当地は伊勢原と呼ばれるようになりました。

外宮
伊勢の神宮では、天照大御神が内宮に、豊受姫大神が外宮に。それぞれ奉祭されています。 当宮もこれにならい両宮が別々に奉祭されています。
全国でも珍しい社殿構造は、江戸時代に編纂された「新編相模風土記稿」にもみられております。当宮社境内には神宮遥拝所が設けられ、当地より伊勢の神宮をお参りすることができます。
(以上、御由緒より)

ちなみに参拝の順序は外宮⇒内宮の順となっておりますので、お間違えなきよう^^
尚、創建と同じ頃、境内に照見山神宮寺という普化禅宗のお寺があった。
普化宗は中国(唐)の普化禅師を祖として、鎌倉時代に禅僧と共に渡来したと言われ、尺八の音と結びついて広まった。
普化宗の僧は『虚無僧』と呼ばれ、江戸時代に入ると徳川幕府の庇護もあって武士が入門し全国へ広まったものの、明治四年太政官布告により廃宗となり、神宮寺は廃寺となったとのこと。

「ひとりよりふたり、ひとつよりふたつ」
このシンボルマークは当宮の内宮と外宮を表現したものらしい。 神社より頂いたしおりには紫地にこのマークが描かれている。

朱色の腰掛が良い雰囲気。 大山詣での後に立ち寄ったの…