Posts

Showing posts from August, 2011

鹿島灘を巡る -16 酒列磯前神社

Image
鹿島灘を巡る
酒列磯前神社
(茨城県ひたちなか市磯崎町4607番地2御鎮座)


茨城南東部を巡る旅もいよいよ最終回。
最後は阿字ヶ浦に鎮座されている酒列磯前神社です。

さて、阿字ヶ浦は学生時代に大洗とともによく行った海岸でした。
今は北関東自動車道や、東水戸道路が開通したおかげでかなり交通の便もよくなったけど、常磐道しかなかった時代は、夏の休日はいつも水戸ICが大渋滞していたな・・・と記憶。


社頭には、燈台を模した燈籠があっておもしろい。
さらに参道はまるで木のトンネルのように鬱蒼としていた。

尚、鳥居脇の燈籠や鳥居などは東日本大震災により、悉く損壊してしまったらしい。
残念・・・。

椿の木を主とする約300メートルの樹叢に覆われた参道。
参拝時期が冬だったため木々は枯れているが、剥き出しになった太い枝がまるで物の怪のよう。
正に神域~異界への入口。


鬱蒼とした長い参道を抜けると、手水舎と摂末社、そして明るい境内が広がってきた。
この辺にて御由緒を。

酒列磯前神社 茨城県ひたちなか市磯前町4607-2御鎮座 旧社名 酒列磯前薬師菩薩神社 (延喜式内社 明神大社 国幣中社)

御創建 斉衡三年(856) 主祭神 少彦名命 (通称えびすさま)、大名持命 (通称だいこくさま)

社格
平安時代初期の『文徳天皇実録』に官社とあり、延喜の制では「明神大社」に列せられた。
歴代領主の崇敬あつく、特に水戸藩二代藩主徳川光圀公には、境内を大規模に拡張し現在の社殿地に遷座、大社殿を御造営された。

明治18年には「国幣中社」に列格。
(以上、参拝のしおりより)

社名となっている『酒列(さかつら)』について、一般的には次のように言われている。
「当神社の面する広汎にわたっての岩石群は南に約四十五度に傾斜して列なっていますが、その内の一部のみ反対の北に傾いた箇所があります。
その様相から『逆列』の地名が生まれ、お酒の神様を祀るところをとって、『酒列』となりました。」


しかし、香島について十数社程巡っていると、やはり「甕(かめ)」事が頭をよぎる。

『荒ぶる神々にむかうばあい境に甕を供えて祈る。』

往古の昔、神聖な酒を入れた甕を列して(並べて)お供えしていた地だったのかな?と妄想。

それを暗示させるかのように、海亀(かめ)の石像が祀られている(嘘)
ちなみに、境内…

鹿島灘を巡る -15 大洗磯前神社 大鳥居と神磯

Image
鹿島灘を巡る
大洗磯前神社 大鳥居と神磯


お社が鎮座されている高台から階段を下りていくと、巨大な二の鳥居。
鳥居をくぐっと鹿島灘に向かうと、神磯と呼ばれる岩礁がある。

ちなみに先の震災時には、津波でこの地点まで漁船が流れてきたという。




この岩礁は「君が代」の詩にも出てくる『さざれ石』で構成されている。
長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したもの。

君が代の歌詞にある

「さざれ石が巌となりて」

ですね。

神磯
御祭神出現の地を神磯という。
毎年元旦神磯の日の出を拝さんとして未明より海岸に集まる者数千、神磯の日の出を拝して後当社に参拝するを例とせり、太平洋万里の波頭岩を咬み、波の花散る壮観は比すべきものなし。

あらいその 岩にくだけて散る月を 一つになして かへる月かな (水戸光圀)
ちなみに、現在の石鳥居が建てられたのは、神磯近くにあった石碑によると、昭和三十一年八月だったらしい。

この鳥居の先には常世の国があるのであろうと思ってしまう程、神的な空間。



さて、大洗周辺は日本列島を東西に走る中央構造線の東端である。
ここ大洗の神磯から筑波山~長瀞~諏訪~天竜川~松阪~吉野~紀の川~四国~九州へと日本を横断した大断層が御柱のように一本に走っている。
正に日本の屋台骨であり大動脈。



石鳥居で羽根を休めている鳥。
寒々しい冬の鹿島灘であったが、とても心休まる一枚が撮れた^^


大洗磯前神社が創建されたのは斉衡3年(856年)と伝えられているが、9世紀の日本は数多くの天災に見舞われていた。
特に貞観年間(859~877年)には連鎖のように天災が続いていた。

貞観三年 直方隕石 (福岡県直方市に隕石が落下)貞観六年 富士山大噴火貞観十二年 貞観地震と貞観津波 (震源地・規模共に東日本大震災と類似)貞観十三年 鳥海山噴火貞観十六年 開聞岳噴火 貞観年間以前も平安京の洪水や承和年間には信濃国・伊豆国で大地震があったらしい。

ここ大洗の地でも、そうした天災に対する不安が蓄積して磯前にお社を建て、常世の国からやってくる救世主を人々は待ち侘びていたのかもしれない。

そんな他力本願なメンタリティーは、1200年近く年月を経過した現在でも何ら変わりはしない。


次回は大洗磯前神社と対をなすお社で、鹿島灘編最終回です♪


鹿島灘を巡る -15 大洗磯前神社 社殿と由緒

Image
鹿島灘を巡る
大洗磯前神社 社殿
(茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890御鎮座)


「元鹿島」大生神社に続いては、一路大洗海岸へ。

潮来から車で1時間強走り、ようやく大洗に到着。
そして高台のてっぺんに大洗磯前神社が鎮座されている。
隨神門の風貌がとても歴史ある雰囲気。

尚、神門・社殿(拝殿・本殿)は、水戸光圀公の命で元禄三年(1690年)に建てられたもの。
今回の震災で損傷がなければよいのだが・・・。
再度参拝したいお社のひとつである。

大洗磯前神社案内記
茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890御鎮座
御祭神 大己貴命 少彦名命
御鎮座
当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡三年(856)と云われておりますから今(平成23年)を去る1155年前の事であります。 文徳実録斉衡三年十二月戊戌(二十九日)の條に、「常陸国上言鹿島郡大洗磯前有神新降云云」とその状を事細かに記してあります。 全国に名社、大社と云われる神社が数多くありますが、当社の様に御創建の年代の明確な社は稀であります。

御祭神は文徳実録に、「大奈母知。少比古奈命也」とありまして、大奈母知は大己貴命、即ち大国主神にして、日本書紀には素戔嗚尊の五世の孫と云い、古事記には御子神と記してあります。

大国主神、大物主神、顕国玉神、葦原醜男神、八千戈神など数多の御名があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されております。
少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。
大己貴命は国土を開拓し殖産興業に力を尽し人々の生活の基礎を築き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営・民生の安定を計り、徳望高く人々はその恩恵を蒙っておりました。

御由緒

文徳実録の記録によれば斉衡三年常陸国上言鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。
「我はこれを大奈母知。少比古奈命也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た」と仰せられました。
当時の記録によると、度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れておりました。 二柱の大神はこうした混乱を鎮め人々を苦しみから救う為に降臨されたのです。
即ち大洗磯前神社は、御創立の当初から関東一円の総守護神として、大神様自らこの大…

流海(霞ヶ浦)を巡る -14 多一族の居住地 大生殿神社と大生古墳群

Image
流海(霞ヶ浦)を巡る
大和多一族の居住地~
大生殿神社と大生原古墳群


大生神社から大生古墳群へ。

大生原古墳群とは、大生神社の西方に大小100を超える古墳があり、最大ものは全長約70m余りの前方後円墳がある。この古墳群は古墳時代中期(5世紀頃)の築造といわれている。

さらに大生神社の南には、大生殿と呼ばれる神社が上円下方墳の上に作られている。
その本殿の中には明暦年間(1655~58)の頃に建てられた多氏の子孫が安置されている。

また大生山延命院観音寺という多家代々の菩提寺の跡もあるらしい。
文武天皇の御代に創建されたといわれている。

そう、この地はかつて多一族の居住地(コロニー)だったのである。


大生古墳群

大生原台地には百十余基からなる古墳群が存在し、
県下でも最大の規模を誇る古墳群を形成している。

この古墳群は古墳の集中状態から大生東部古墳群、大生西部古墳群、カメ森古墳群、田ノ森古墳群に四大別されるが、この古墳群は大生神社の西側に位置し、県指定史跡鹿見塚古墳をはじめ、天神塚古墳、白旗八幡塚古墳などから大生原古墳群の被葬者が鹿島宮と密接な関係のあったオフ氏(多)一族であったことは各方面から立証されている。
(案内掲示板より)

この大生古墳群から北浦を越えて約5km先の真東に宮中野古墳群がある。
前々号のとおり、まるで定規で直線を引いたかのように一直線なのである。

その古墳群も100基を超える大古墳群だったのだが、江戸時代に編さんされた「新編常陸国誌」には「いにしえの郡家あり、郡司などの墓なるべし」との記述のみで、埋葬されている一族は謎のままという。

尚、古墳群の近くには、鹿島神宮の境外摂社である坂戸神社が鎮座されている。

現:北浦を挟んだ東西の地に二大古墳群。
この辺にタケミカヅチやフツヌシに対する疑問の回答の手がかりになるのかな、と思った。

また『カガセオ』についての古伝承を始めとした調べたい事、行ってみたい地が本当に多くある。
侮れぬ、常陸国。
その後、多氏の菩提寺といわれる古寺を訪ねてみたが・・・
どこにあるかさっぱり分からなった(><)
何となく急坂の窪地あたりがそうだと思ったけど、怖くて進めませんでした。


気を取り直して、大生殿神社へ。

鬱蒼とした森の中、蚊の大群を除けながら、参道とおぼしき道を歩いていくと、小山の上に小さな社殿が鎮座しているお社を発見。

流海(霞ヶ浦)を巡る -13 「元鹿島」 大生神社

Image
流海(霞ヶ浦)を巡る
「元鹿島」 大生神社
(茨城県潮来町大生鎮座)

鹿島神宮に続いては、「元鹿島」と言われている大生神社。
霞ヶ浦畔から急坂を登った高台に当神社は鎮座している。

参道は長い一本道。
常陸国の古社は、昔から変わらぬ佇まいを残しているように思える。


大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのかみ)を祭神とする元郷社で、その創祀年代は、大同元年(806)藤原氏が東夷東征の際に勧請されたのが始まりと伝えられているが定かではない。

鹿島の本宮と云われ古く大和国の多(飯富)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御祀したのに始まるといわれている。

「常陸國風土記」行方郡の板来(いたく)の村に関わる記述の中に、神武天皇の皇子、神八井耳命の子孫、建借間命が国栖(くず)と呼ばれる異族の首魁を征討した時の話が伝えられている。

異族は穴を掘って住んでいて、官軍を防いでいたが、その頑強さに手を焼いた建借間命は一計を案じて、浜辺に美しく飾り立てた舟を旗になびかせ、笛の音が流れて聞こえるなかで、「杵島の唱曲」を七日七夜歌ってさかんに遊楽した。賊の方は男女ともに穴から出てきて、浜一杯にひろがり、めずらしい歌舞を楽しんだ。

建借間命は賊が油断した隙を捕えて襲い掛かり、皆殺しにしたという話である。
その中心部は、旧大生原村の大生と呼ばれたところであった。

また、「常陸國風土記」行方郡の条に、「ヤマトタケルの食事を煮炊きする小屋を海辺にかまえ、小舟を並べてつらねて橋とし、行宮に通った。そこで大炊(大飯)の意味をとって、大生の村と名づけた」とある地であり、この地名と多氏との関連が現れている。

大生原の地は、大生古墳群と呼ばれる古代の墳墓が百数十も密集している地域であり、古代の常陸を想定してみると、ここは流海すなわち北浦とその南の利根川下流につき出した行方台地の尖端に位置しており、そこから鹿島方面に行くには、この行方台地の岬にあたる大生から船で行くしかなかった。

大生神社は、天正八年(1590)の棟札が残っている古社だが、大生神社の氏子たちは、鹿島神宮はここから移されたものであると固く信じ、「元鹿島」の名で大生神社を呼んでいた。

それを裏書きするように、鹿島神宮の代々の神職をつとめている東家の文書に、大生神社は南部大生邑(多村)から移されたとあり、それに従えば、大和の多坐弥志理都比古神社(多神社)…

流海(霞ヶ浦)を巡る -12 常陸国一宮 鹿島神宮 要石と東西南北に走るライン

Image
流海(霞ヶ浦)を巡る
常陸国一宮 鹿島神宮 要石


奥宮からさらに南に歩いていくと、かの有名な「要石」がある。

要石は頭頂部だけが、わずかに露出している霊石である。
香島の大神が座とされた石の御座とも、或は古代における大神奉斎の座位として磐座とも伝えられる霊石である。

この石、地を掘るにしたがって大きさを加え、その極まる所しらずという。 水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説を相俟って著名である。
信仰上からは、伊勢の神宮の本殿よ貸したの心の御柱的存在である。 (以上、境内案内板より)

大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花

小林一茶 (文化十四年五月二十六日)

地面から凹型に顔を出している石が要石である。

大鯰に乗ったタケミカヅチの碑
要石についての詳細は以下のリンクにて
地震を鎮める要石のおはなし(Link)

さて、楼門脇の末社(須賀社、熊野社、祝詞社、津東西社)の先に
坂戸社、沼尾社の遥拝所がある。

遥拝所
摂社 沼尾神社 北四キロ
御祭神 経津主大神
摂社 坂戸神社 北二キロ
御祭神 天児屋根命

ちなみに沼尾神社では、鹿島神宮の斎主神である経津主大神が祀られていて、坂戸神社の祭神は天児屋根命、中臣氏の祖神である。

さて上記二社と鹿島神宮跡宮、そして南に位置する息栖神社は、ほぼ南北一本のラインで結ばれている。(青線)

しかも、大生神社の項にて詳細を書こうと思っているのだが、流海(現: 北浦)を挟んで100基以上築造された二大古墳群が東西に並列している。(赤線)

より大きな地図で 鹿島レイライン を表示
そこに何か大きな意味があるのか、それとも単なる偶然なのかは定かではない。
有名な東国三社(鹿島神宮 跡宮~香取神宮~息栖神社)の『△ライン』(紫線)とあわせて見ていると、まことに不思議だが面白い。

妄想(!?)を爆発しながら鹿島神宮を後にすると、かつて存在していた鹿島の石鳥居に、榊の木が植えられていた。
そんな榊を見下ろすかのように、脇にある日章旗が浜からやってくる風に靡いていた。

そして、東国三社巡りのご褒美に、鹿島神宮から御守を頂いた。
ちょっと得した気分♪

次回は「元鹿島」と呼ばれるお社です。

以下、当ブログのリンクです
http://travelog-jpn.blogspot.jp/2011/08/12.html …