26 February 2011

武蔵國探訪記 -2 「関東の石舞台」 八幡山古墳石室


武蔵國探訪記
2- 『関東の石舞台』 
八幡山古墳石室


八幡山古墳全景

さきたま古墳群を見学後、レンタサイクルを借りて、目的地の八幡山古墳へ。


途中、長閑な田んぼ風景が広がる。
昔はよく田んぼの中で、昆虫を捕まえたりして遊んだものだ。

田んぼの脇に置かれていた「塞神」の石像も、まったりと過ごしている。スローな時間だなぁ・・・と、畔に腰かけてながら一服☆

そして工業団地内に入ってみると・・・
廃墟チックな建物が多くあり、別の意味で興味津々w
町工場の一角に古墳石室あったので、正直迷子になりかけました・・・(汗)


そしてやっとこさ、八幡山古墳石室に到着。
しかし、門には施錠されていた・・・。

周囲を工場と住宅に囲まれて、時代から取り残されたかのような雰囲気。

石室公開は、土・日・祝日のAM10:00~16:00のみで、係のおばちゃんが10分程遅刻してやってきた。
入場簿にサインした後、少し入場簿に目を通してみたら、一日平均2~3組位しか来ていない・・・。

何とも勿体ない・・・。

しかし、裏を返せば独り占め!
早速石室内を占拠させて頂いた!!

前室

あせる気持ちを抑えて、石室内へいざ入場。

『おおおっ!』

何とも異質な世界。
囲まれた石室の中は薄暗いが、石の隙間から零れる光が眩く輝いている。

ここは前室と呼ばれるところ。
八幡神の石祠が鎮座されている。
中室
ここは中室。
写真では高露出のせいか明るくみえるが、実際石室内はとても暗く、空気もヒンヤリとしている。

後室

そして後室へ。
きっと、この大きな石の中に棺や当時の装飾品などが供えられていたのだろう。

八幡山古墳は、7世紀中頃に築造された、直径約80mの円墳と推定されている。さきたま古墳群とは別の若子玉古墳群に属し、その中でもかなり大型の円墳であったそうだ。

昭和9年に約2km東にあった小針沼埋立のための土取り工事で封土を崩した際に石室が現れたため、翌10年に発掘調査が行われた。

その結果、羨道・前・中・後室の3室からなる前兆16.7mの巨大な石室であることが明らかになり、昭和19年には県指定史跡に指定された。

その後、昭和52~54年に発掘調査と復元調査が行われて現在の姿となっている。

発掘調査では最高級の棺である漆塗木棺の破片や銅鋺など郷かな遺物が発見されており、この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられる。

此の事から、この古墳を『聖徳太子暦』に登場する武蔵国造物部連兄麿(むさしのくにみやつこもののべのむらじえまろ)の墓と推測する説もある。

なお、この石室の様子が、飛鳥の石舞台古墳に似ていることから、考古学者の大場磐雄が「関東の石舞台」と形容した。

(以上、案内板及び配布資料より)

巨大な天井岩、そして数多くの石に囲まれた石室の中。

こればかりは、実際に入場してみないと感じることは出来ないので、感想・コメントは控えさせて頂きます。(というか、適切な表現が頭に浮かんで来ない)
尚、復元前(土取り工事)をしたあとの石室はこのような状態。
ちなみに名前の由来となっている八幡さまの石祠は、巨石が散乱した状態の中でも無傷だったようでした。(この写真は、事務室内に展示してあります)

「関東の石舞台」という名に相応しい美しい外観を持った石室。
同時に、本家「奈良の石舞台」も見学してみたいと思った。


次回も、武蔵國探訪です☆

24 February 2011

武蔵國探訪記 -1 さきたま古墳群


武蔵國探訪記
1- さきたま古墳群と「武蔵国造の乱」




さきたま古墳公園には、東西600m、南北900mの狭い範囲に大型古墳が9基(稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳 、愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳、鉄砲山古墳、中の山古墳)が現存している。

日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。


古墳時代、このあたりはすぐ東が東京湾につながる埼玉沼という大きな湖に突き出た半島だった。
そして、5世紀の終わりから7世紀の始めにかけて、族長クラスの大型古墳がこの地で次々と築かれた。

また、突如として畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見えるヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという説がもあるが、まだ不明確な点が多い。

二子山古墳
まずは、古墳群についてのご紹介。

二子山古墳は、武蔵国最大の前方後円墳。埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明だが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、6世紀初頭前後に造られたと推定されている。
稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点がある。

稲荷山古墳

5世紀後半に造られた国宝~金錯銘鉄剣が出土したことで有名な前方後円墳。115の文字には、ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたヲワケの功績等が記されている。

ここは稲荷山古墳の登り口。
このアングルから見ると、まるでピラミッド風な佇まい。

ちなみに被葬者ヲワケは、豊富な副葬品をもって葬られており、ヤマト王権に関係の深い大首長、またはその一族の有力者であった可能性が高いとみることができるが、未解明な点が多く謎に包まれている。

将軍山古墳

6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳。
明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土された。
尚、後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。

丸墓山古墳

日本最大の円墳。
埋葬施設は発掘されていないため詳細は不明だが、出土した埴輪から6世紀前半に造られたと推定されている。とすれば、稲荷山古墳の後、二子山古墳と同じ時期に造られたことになる。

丸墓山古墳から見た稲荷山古墳と行田の風景。
とても長閑~な風景である。

鉄砲山古墳

最後に鉄砲山古墳について。
築造時期は6世紀後半。県道を挟んで二子山古墳の南側、さきたま古墳群では南に寄った位置にある。長さ109m、埼玉古墳群の前方後円墳では3番目の大きさである。
名前の由来は、江戸時代に古墳の周辺が忍藩(おしはん)の砲術練習場になっていたことから名付けられた。

次回は、埼玉にもこんな凄いものがあったのか?
と、感嘆してしまうような遺構です☆

「関東の石舞台」八幡山古墳石室
http://travelog-jpn.blogspot.jp/2011/02/2_26.html

22 February 2011

武州六大明神を巡る 武蔵國六之宮 杉山神社


武州六大明神を巡る 六之宮 杉山神社

(横浜市緑区西八朔町・・・論社)


このシリーズの締めは数多くの論社が存在している「杉山神社」
その中で最も有力視されていて、武蔵国総社「大國魂神社」の御由緒に記載されている緑区の杉山神社へ訪ねてみた。


JR横浜線十日市場駅より徒歩20分程で到着。
違う神社へ参拝していた為、冬至の夕暮れ時にようやく着いた。

早速参道へ向かってみる。
とても古式ゆかしい雰囲気を感じる。

そして、境内へ。
鎮守の森の前に佇む入母屋造の拝殿は、小さいながらもとても神々しく見えてくる。
さらに赤焼けした夕日のスポットライトが神々しさを助長している。

杉山神社の御由緒(石彫刻)をパシャったが、解読不能なのでWikiより転記します。。。

主祭神は五十猛命(イソタケル)で、古事記では大屋毘古神(オオヤビコノカミ)と同一神とされている。

オオヤビコはオオナムヂ(大穴牟遅神・・・出雲大社の祭神大国主神の別名)の兄弟(八十神)による暗殺の謀略から守る為に、彼を匿ったカミとされている。(出雲大社と大国主神の神話へリンク)

また、日本書紀ではスサノオの子とされ、高天原より追放されたときスサノオと共に新羅へ天降ったが・・・

「きにくわん!」

と、スサノオがワガママ(?)を言い、船で出雲へ渡ったとされている。

五十猛神は、『天降り』の際に多くの樹木の種を持っていったが、新羅には植えずに九州からはじめて大八洲国に植えたので、日本は青山に被われる国となったという。

よって、五十猛命は「林業の神」として崇められている。

配祀神は大日霊貴命(アマテラス)素戔嗚尊(スサノオ)太田命

『神道集』によると、当時は椙山大明神(すぎやまだいみょうじん)と称し、本地仏を大聖不動明王としている。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代は神体が不動明王の立像であったとのこと。

『続日本後紀』に「枌山神社」(すぎやまじんじゃ)とあり、延喜式神名帳には武蔵国都筑郡唯一の官社として杉上神社の記述があり、大國魂神社の六所明神の一所として祀られた。
西八朔杉山神社が続日本後紀のそれであると説いたのは、幕末に大國魂神社の宮司であった猿渡盛章である。

流造の本殿。

さて、杉山神社(あるいは杉山社、椙山神社)という名前の神社は、都筑郡(横浜市北部)と周辺に数十社あり、いずれが正しいかは必ずしも明らかでなく、都筑区中川六丁目、都筑区茅ケ崎中央、港北区新吉田町などの社とする説もある。
『新編武蔵風土記稿』(1810年-1830年)によると、関東地方四郡に七十数社在ったという。それらは、日本武尊か五十猛命のいずれかまたは両方を祭神としている。
尚、ここの杉山神社は、現在の所在地よりも300メートル西北の山麓が鎮座地であったという。
遷座時期は約300年前の延宝年間とされている。

こちらは末社である稲荷社で、社殿右側に鎮座されている。


そして、社殿の左側に鎮座されている覆殿。
その先には、夕日が空を赤く染め始めていた。

そして、夕日を見る為に、境内脇へ足を運んでみたら・・・

富士山が姿を現していた!


うっすらと顔を出している富士山、そしてオレンジ色の夕日と濃紺色の空とのコントラスト。
論社なんて関係ない、己自身の心に残る社が「ホンモノ」だと思えば良いのだ。

美しい夕暮れの景色を、陽が沈むまで眺めていた。


~武州六大明神編おしまい~


次回は、武蔵國探訪記です☆

21 February 2011

武州六大明神を巡る 武蔵國二之宮 二宮神社

武州六大明神を巡る 二之宮 二宮神社
(東京都あきる野市)

寂しげな雰囲気が漂っていた小野神社をあとにして、二宮神社へ。
五日市線東秋留駅から徒歩約7~8分で到着する。

二宮神社の社頭。
こういう門構えの神社が個人的に大好き。


そして社殿へ。
とても風情ある感じで、木々が生きている。
やはり神社はこうでなければ。

尚、この拝殿は昭和初期に建立されたもの。

御祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)で、記紀神話において天地開闢の際に出現した神。


御由緒

二宮神社は明治の初めまでは、小河大明神または二宮大明神とも称されていた。

小河大明神とは、鎮座地が「和名(和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)~平安時代中期に作られた辞書」に記載の武蔵國多磨郡小河郷の地区内にあった為で、二宮大明神とは「神道集」や「私案抄」などに見られる武蔵総社六所宮(現:大國魂神社)の所祭神座の第二席にあたるためである。

建立年代は不明だが、社伝によれば藤原秀郷が天慶の乱(939年)に際して戦勝を祈願したとされ、その後源氏、北条氏からの崇敬を受け、徳川時代には代々15石の朱印状を与えられていた。
現在の本殿は、江戸時代初期建立のもので、本殿内に鎮座されている宮殿は室町時代のものとされており、東京都指定旧跡として大正15年5月に指定されている。 
(以上、御由緒より)

上の写真の祠には伊勢、八幡、天王、天神、稲荷の五社を合祀されている。
また、岐神として荒波々伎神社(アラハバキ)が門前に鎮座されている。


境内から眺める小河地区の風景。

丘の麓には御手洗池という、どんな干天にも涸れたことがない豊富な湧出量を誇る清らかな湧き水が満々とたたえられているという。
この湧水は同市の八雲神社の湧水とともに、東京都選定「東京の名湧水57選」のひとつに数えられている。


次回は、時間に余裕をもって参拝したいな、と思った。

20 February 2011

武州六大明神を巡る 武蔵國一之宮 小野神社


武州六大明神を巡る 一之宮 小野神社

(東京都多摩市・・・論社)


私は武蔵國に生まれ、武蔵國で育った「むさしっ子」である。

「むさしっ子」と自称するならば、
一度は巡らなくてはいけねぇ~ってもんだよ!


・・・てな訳で、武州六大明神巡りをしてみた。

まず、武州六大明神の謂われについて・・・。

以前紹介した大國魂神社は、大化の改新によって武蔵国府を大國魂神社のある府中に置かれ、国司が国造に代わって神事を執することとなった。

管内神社の祭事を行う便宜上、武蔵の国中の著名な神社六所を一か所に集めて祀るようになったので、武蔵國総社『六所宮』と称せるようになった。

その六社とは・・・

一之宮 小野大神 
(現:小野神社(論社)~東京都多摩市)
二之宮 小河大神 
(現:二宮神社~東京都あきる野市)
三之宮 氷川大神 
(現:氷川神社~埼玉県さいたま市大宮区)
四之宮 秩父大神 
(現:秩父神社~埼玉県秩父市)
五之宮 金佐奈大神 
(現:金鑚神社~埼玉県神川町)
六之宮 杉山大神 
(現:杉山神社(論社)~神奈川県横浜市緑区)

とされて、総称して『武州六大明神』と称されるようになった。

既に氷川神社秩父神社金鑚神社の三社は参拝済なので、残り三社を昨秋の(!?)休みの合間をみて、巡ってみた。

まずは、一之宮と称されている小野神社から。

京王線聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩10分。

上の写真は道中にあった『一之宮渡し』
いまいち意図が分からなかった^^;

そんなモヤモヤした気分の中歩いていくと、立派な社頭が姿を現した。
但し、参拝客は殆どいない・・・。一之宮と称しているのに寂しげな雰囲気。

こちらは随身門。
なかなか立派な造り。

そして拝殿へ。

広い敷地の中に鮮やかな朱色の社殿がポツンと置かれている。
心が温かくならない・・・殺風景な更地に一本の参道。
きっと木々や自然を排除しているからであろう。

小野神社の御祭神は、天乃下春命と瀬織津比咩命、伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴大神、瓊々杵尊、彦火火出見尊、倉稲魂命である。
近所の社から合祀されて祭神となった神さまもいるのであろうね。

主祭神の天乃下春命は、高皇産霊尊の子、天思兼命の子であり、秩父神社を祀る秩父国造(知知父彦命)の祖も天乃下春命である。
また、瀬織津比咩命(せおりつひめのかみ)は記紀神話には殆ど出て来ないが、穢れ祓いの神と共に水の神であり、天照大神の荒魂とも言われている。


小野神社は、安寧天皇(紀元前六世紀)の勅命により創設されたと言い伝えられている。
また「延喜式神名帳」には多磨郡八座の一つに記されている。

なお、「日本三代実録」によると、元慶八年(884年)正五位の神位が授けられたとのこと。

こちらは本殿。
鎮守の森が伐採されているせいか、とても寒々しく感じてしまう。
神社として普通に存在している『樹』が欠如しているだけで、こんなにも印象が変わってしまうものなのだな・・・。

この門は「南門」と呼ばれる門。

次は二宮神社へ。

18 February 2011

キノミヤを追いかけて ~ 伊豆へGreat Escape!


キノミヤを追いかけて ~ 序章



2月の3連休(プラス・・・内緒w)を利用して、
伊豆国を半周してきました☆

予定ならば神津島にも行く予定でしたが、残念ながらフェリー欠航(ToT)
伊豆諸島は次回へおあずけとなりました・・・。

とはいえ、色々とインスピレーションを受けることが出来た旅でした!
本編の公開は都合上、4月以降になってしまう予定なので、『イマイチ写真』を何枚かUPしまーす♪

沖縄の寒緋桜と並んで、
日本列島で一番開花の早い『あたみ桜』

来訪時には満開でした☆

伊豆といえば『巨木』

温帯の木や、
亜熱帯系の木々だけでなく・・・

熱帯地方でしか育たないソテツの木が
神社に必ず1本自生していた。
とても不思議だ・・・

当然、多くの神社も参拝しましたよ☆
(写真は八幡宮来宮神社)

そして、防空壕も数多くありました

この壕は、宿泊した旅館の名物
『防空壕風呂』

網代の漁港

漁師のおっさんと話したりして、とても楽しかった☆

伊古奈比咩命(白濱)神社の黒松と大明神岩

神々しい雰囲気が漂う・・・が、

実は撮影時、どえらい暴風雨で、
1枚撮影する度にレンズを拭くという有様でした(泣)

石廊崎附近

伊豆にはこのような巨岩が
ゴロゴロと、海に転がっています(笑)

白浜海岸

荒れた波の高さと
体が吹き飛ばされそうな位の強風を肌で感じた瞬間、
フェリー欠航は確実だな、と悟った

ちなみにこの日、天城峠は大雪だった

・・・と、ということで、

ちょい待ってくださーい!!