28 May 2011

帝都の社 : 芝大神宮と烏森神社 (ビルに囲まれた古社)


帝都の社 ‐8
芝大神宮・烏森神社
都内には数多くのビルに囲まれたお社があります。
その中でも、古社だけどモダーンな佇まいがする神社を二社紹介したく思います。

ちなみに上記の画像は、増上寺芝大門です☆


1. 芝大神宮
(東京都港区芝大門一丁目12番7号御鎮座)

JR浜松町駅から徒歩10分弱。
増上寺の芝大門の近く、ビル群のなかにひっそりと鎮座されている。

社頭


御由緒
主祭神 : 天照皇大御神、豊受大神
相  殿 : 源頼朝公、徳川家康公

当宮は伊勢神宮の御祭神天照皇大御神(内宮)・豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りし、平安時代・一条天皇の御代に創建された約一千年の歴史のあるお社である。

関東のお伊勢(芝神明)さまとして崇敬されてきた。

社殿

芝神明の祭礼は俗に『芝神明のだらだら祭り』といわれ九月十一日よえい二十一日までの期間中、十一日の例大祭祭儀日を中心に奉納狂言・奉納踊りなどの諸行事が行われる。

また、江戸時代。
境内には相撲、芝居小屋、見世物がかかり、庶民の憩いの場として親しまれていた。
鳶頭と相撲取りとのトラブルは『め組の喧嘩』として有名で、今でも歌舞伎の演目となっている。

貯金塚

日本の貯金王と称された牧野元次郎を追慕し、建立された塚。
日本初の今でいう『リテール・バンク』の先駆けとなる「ニコニコ貯金」と称する貯金方法を普及させた銀行家。

脇には「生姜塚」なる塚が建てられている。
昔より生姜は万能薬として重用がられており、かつては『生姜市』で賑わっていたらしい。

そして神社周辺は昔ながらの情緒溢れる建物が今だに存在していた。


2. 烏森神社
(東京都港区新橋二丁目15番5号御鎮座)

続いては、サラリーマンの街、新橋に鎮座されている烏森神社について。
JR新橋駅烏森口から出て、繁華街の裏小路に鎮座している。
とても雰囲気があって良い感じです☆

社頭

鳥居は何という様式なのか・・・。
打ちっ放しのコンクリートの鳥居と社殿。
賛否両論ありそうだが、個人的には時代を映している感があって良いかな?と思う。

パビリオン(巨大展示会場)のような大聖堂やモスクがあったりするのだし・・・。

社殿


東京新橋鎮座
烏森神社

御祭神 
倉稲魂命、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、瓊瓊杵尊

地名の由来

烏森の地は、古くこのあたりが武蔵野国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は松林であった。その為当時この地帯(新橋周辺)は、「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。
しかもこの松林には烏が集まって巣をかけていたため、「烏の森」とも呼ばれるようになった。
明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の『烏森口』としてその名をとどめている。

神社の創始

平安時代の天慶三年(940)に、東国で平将門が乱を起こしたとき、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷(前回の下谷稲荷?)に戦勝を祈願したところ、夢に白狐がやってきて白羽の矢を与えた。

その矢をすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神烏の群がるところが霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想の如く烏が群がってきたので、そこに社頭を造営した。
それが烏森稲荷の始まりである。

その後、明暦の大火(世界三大大火のひとつと数えられている)にて類焼を免れて、信仰が一層深まった。
また、椙森神社(日本橋)、柳森神社(神田)とあわせて「江戸三森」として古くから崇敬されている。

何とも派手なお神輿をパシャって、一旦帝都の社シリーズは終了。


次回はルート246を攻めてみますww

26 May 2011

帝都の社 : 赤坂氷川神社

Location 日本, 東京都港区赤坂6丁目10

帝都の社
7- 赤坂氷川神社
(東京都港区赤坂6-10-12御鎮座)


下谷神社のお次は赤坂氷川神社へ~♪

赤坂通りを西に歩いて、少し入り組んだ道を入っていくと、鬱蒼とした森が広がってきた。
メイン・ストリートの喧騒がウソのように静かです。

社頭

この辺で御由緒を

祭神: 素盞鳴尊、奇稲田姫命、大己貴命

起源: 創立の起源は、古い書物によると、天歴五年(村上天皇・951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称・・・古呂故ヶ岡 赤坂四丁目一ツ木台地)に祀られた。これによりおよそ百年後の治歴二年(後冷泉天皇 1066年)、関東に大干ばつが発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。

男坂

江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍徳川吉宗公が享保元年(1716)将軍職を継ぐに至り、同十四年(1729)に老中岡崎城主水の忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌十五年(1730)四月二十六日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、二十八日に将軍直々の御参拝がありました。

震災で倒壊した石燈籠


以後十四代家茂公まで歴代の朱印状は下附され、より一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。
大正以前は山車十三台で御用祭が行われました。

(参拝のしおりより)

楼門
ここは楼門。
実は参拝時に結婚式が執り行われていて、少し慌ただしい様子。
最近、神社での神前結婚式が多くなったな、と思いますね♪

社殿

こじんまりとしているが、木々に囲まれていて本当に静か。
高層ビルに囲まれて息苦しい今の職場でなく、可能であればこの辺で働きたい^^

尚、『新撰東京名所図会』(明治22年)には赤坂氷川神社について以下のように書かれている。

「氷川神社は、氷川町52番地に鎮座せる府社にして、赤坂区第1の鎮守社たり。同町中央窪地より西に向い、甃石を踏みて進めば、高燥の丘あり、是れ即ち神苑なり。麓に花崗石のたまがきいかめしく、右に四合稲荷の小祠あり。

石段に上らむとする所、左右2基の石灯籠を据えたり、享保9年閏4月氏子の奉納せるもの、又石階33級を尽くせば、此所にも甃石を敷列べ石狛犬左右に蹲居せり、45歩を移せば花崗石の鳥居、屹として聳え、氷川大明神の5字せり。

尚、鍵の手形の甃石を右に進み、鳥居を潜り左に水屋を見て中門を入れば、社前に達するを得べし。

太鼓橋


拝殿は、銅瓦葺、障泥博風、桝組、向拝付勾欄造、惣朱塗上蔀なり、本殿、幣殿其の後に在り青簾半ば巻きて、神鏡長えに輝き、神霊灼に畏し、賽客をして思わず頭を垂れしむ。」
(『港区の文化財・第13集』より」)

九神社


天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社、以上の九社を合祀したお社。

西行稲荷神社


境内社。
享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」とした。
町の発展に伴い、大正10年氷川神社境内に遷宮。
別名「火伏の稲荷」ともいわれ、火災除のご利益があるといわれている。

四合稲荷神社
御祭神: 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

1.古呂故(ころこ)稲荷 : 赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座
2.地頭(じぬし)稲荷 : 氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座
3.本(もと)氷川稲荷 : 本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座
4.玉川(たまがわ)稲荷 : 赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座

以上の四社を明治31年遷座合祀し、幕末より赤坂在住の勝海舟により、『四合(しあわせ)稲荷』と称えられた。

大正14年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)、及び縁起(えんぎ)稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)の二社を、 また昭和9年に明徳(めいとく)稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を遷座合祀し、現在に至っている。

勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額も現存しているとのこと。

以上、都心のど真ん中にある心落ち着くお社でした。


とても心地良い気分で、赤坂通りを歩いていると、こんな看板が・・・。
ベンチャーズか加山雄三時代のエレキサウンドのみ受け付けなのかな??

25 May 2011

帝都の社 : 上野下谷神社

Location 日本, 東京都台東区東上野3丁目

帝都の社
6- 上野下谷神社
(東京都台東区東上野3-29-8御鎮座)

帝都の社シリーズもいよいよ大詰め。
今回はパンダで大騒ぎ(!?)な上野公園とは反対口に鎮座されている下谷神社へ。

大鳥居

公園口の喧騒が嘘のように浅草口は静かだった。
JR上野駅から徒歩5~6分位の地に鎮座されている。
ちなみにこの大鳥居の建立は昭和八年五月と記載されていた。

社頭

大鳥居をくぐると、木々に囲まれたお社が姿を現す。
境内にはお初詣をしていた参拝客が赤ん坊を囲んでにこやかな顔をしている。
ほのぼのとした光景。

神門

そんなところで御由緒を・・・

祭神名 大年神
配祀祭神名 日本武尊

大年神は天照皇大神の御弟素戔雄尊の御子で五穀を主宰し篤く産業を守護し給い、倉稲魂命と共にひろく「お稲荷様」として祭られている神様であります。
日本武尊は第二十二代景行天皇の皇子で智仁勇を兼備え諸国を平定して御恩威を四方に輝かされました。

社殿

当神社は、人皇第四五代聖武天皇の御代天平二年(730)に狭田の稲置らが、大年神日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ヶ岡の地にこのニ神をお祀りしたのが創めと伝えられて居ります。
(*天平2年(730)行基により下谷に神仏習合神社として正法院(現豊島区西巣鴨)と共に創建ともいわれている)

第六十二代朱雀天皇の天慶三年、田原藤太秀郷が相馬に向かうとき当神社に参籠して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新たに造営致しました。

降って寛永四年、寛永寺を建立するにあたり、社地を上野山下に移されましたが狭いので、延宝八年更に広徳寺門前町に替地して社殿を造営しました。当神社は昔から「正一意下谷稲荷社」と称し奉られていたので、このときからこの町を稲荷町というようになりました。

本殿

明治五年に神社名を「下谷神社」と改め、翌六年郷社にう昇格致しました。
大正十二年大震災のため、社殿悉く焼失しましたのでとりあえず仮社殿を遷座しましたが、昭和三年土地区画整理により改めて社地を現在の所に改め、同六年社殿造営の工事を起こし、同九年完成し本遷座し奉りました。

境内の脇道。
江戸情緒が今だに残っている。

その後東京は戦争の災禍に遭いましたが、当神社は御祭神の偉大な御神徳により、奇しくも御神体御宝物はもとより、社殿全建物に僅かの損害もなく、修復などを経て現在に至っております。

なお、当神社は寛政十年(1798)に江戸で初めて寄席は行われた由縁の地で、境内には「寄席発祥の地」の石碑が建立されています。

(以上、下谷神社参拝の栞より)

裏参道の真新しい鳥居と本殿。
とても心落ち着く風景だなー♪

24 May 2011

帝都の社 : 白山神社

Location 日本, 東京都文京区白山5丁目31

帝都の社 : 5- 白山神社
(東京都文京区白山5丁目31-26御鎮座)

社頭
白山は何度か立ち寄った町ではあるが、具体的に何をしてたか覚えていない・・・。
しかし、准勅祭社(東京十社)に比定されている白山神社があるので参拝した。

ちなみに白山の近所である小石川へは幼少時代に父に何度も連れて行ってもらっていた。
休日出勤する父の職場見学、そして立ち飲みの酒屋へ (^o^)

父は印刷会社に勤務していて、仕事っぷりを見る度に

「かっこいいな」

と、憧れに近い尊敬の念をもっていた。
そして仕事帰りは必ず酒屋で決まって日本酒を一杯ひっかけていた。

・・・仮にボクに子供がいて、ボクの仕事っぷりを見せたらどう思われるのだろう?

社殿

父は必ずボクに・・・

『お母さんにはナイショだぞ!』

と、ボクにファンタ・オレンジを買ってくれながら、バツの悪そうな顔でお願いしていた。

まだ後楽園球場があった昭和時代の思い出。
そんな父はもうすぐ80歳です。

・・・おっと、ノスタルジーに浸ってしまった。

扁額

そんなところで御由緒を・・・

白山神社由緒

祭神 菊理姫命、伊弉諾命、伊弉冉命
例大祭日 九月二十一日

当社人皇六十二代村上天皇天暦二年(948)九月加賀一宮白山神社を武蔵國豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。

建武四年(1338)足利尊氏公により国家平安御祈願所に命ぜ永百貫文之御判物を賜る。

元和二年(1616)徳川秀忠公の命により小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安四年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現社地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍綱吉とその母桂昌院の信仰を受けらる。

本殿

元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文六年(1677)九月二十九日祭礼は賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。

元禄三年(1690)正月二十九日旧幕府より社領三十石寄附之あり。右朱印元禄六年(1693)九月二十九日戸田能登守相渡さる。

元禄十六年(1703)十一月二十九日、小石川辺りより出火。本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで類焼し、宝永元年(1704)六月十四日、加藤越中守掛にて仮殿手当として金五百両五千挺寄附あり。

日向ぼっこしながら
私に「ベー」としている猫ちゃん

再建するも享保三年(1719)三月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治三十二年拝殿建設、昭和八年改修し、同九年九月十八日盛大に正遷座大祭を施行す。

(なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり)

当社は明治元年勅祭神社に準じられ(准勅祭神社)東京十社の一つである。
(石碑より)


次回も続く帝都の社♪

22 May 2011

帝都の社 : 湯島天満宮 (湯島天神)

Location 日本, 東京都文京区湯島3丁目

帝都の社 : 4- 湯島天満宮
(東京都文京区湯島3-30-1御鎮座)

続いては、「湯島天神さま」で知られている湯島天満宮へ。

天神石坂(天神男坂)

江戸時代の書物「御府内備考」によると、湯島天神への参拝のための坂だったが、その後本郷から上野広小路に抜ける通り道になったらしい。

天神石坂の脇にひっそりと鎮座されているのは、『復興地蔵尊』と呼ばれている地蔵尊。

由緒書きによると、1923年の関東大震災にて被災した方々の安寧と早期の復興を願い、三百年来火伏寺として伝統を持つ心城院の協力を得て、震災復興地蔵尊(右側)を建立した。

その後東京大空襲で隣接する被害は、殆ど焼土に見舞われたが、この町内のみ一軒の損傷もなかった。

「お地蔵さん」の御加護によるものと往時の人々の心に深く刻み込まれ、その後一体追加されて、現在も地域の守護尊として大切にされている。

社殿


参拝時は丁度「梅まつり」が開催されていて、平日にもかかわらず境内は参拝客でいっぱい!

写真の社殿は、本殿と拝殿が幣殿で結ばれている「権現造り」の建築様式で、平成七年に純木造で建て替えられた。

社殿建築にあたっては紆余曲折があって、この地域は「防火地域」に指定されており、たとえ社寺建築であろうと、新たな木造建築は認められないのだが、慎重な審議・万全防火対策などを講じて、建設大臣認定第一号として木造建築が許可されたらしい。

本殿

さらに歴史を遡ると、旧社殿は土蔵造りだったが、江戸幕府が頻繁に起こる火災のため、「焼け跡に建てる家はすべて塗家土蔵造り、瓦屋根にせよ」という防火対策を引き継ぎ、明治十八年に立て替えたものだったらしい。

・・・都心で寺社建築するのも大変なのですね。

狛犬


狛犬が『阿~っ!』と叫んでいるところで御由緒を!?

祭神: 天之手力雄命、菅原道真公

湯島天満宮(湯島天神)は、雄略天皇二年(458)一月勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのが始まりである。降って天平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉斎した。

撫で牛


文明十年(1478)十月太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進。
その後、将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。

明治五年(1871)十月には郷社に列し、ついで同十八年府社に昇格した。
明治維新前は、上の東叡山寛永寺は別当を兼ね、喜見院がその職にあたった時期があった。
元禄十六年(1703)の火災で全焼した際、宝永元年(1704)将軍綱吉公は、金五百両を寄進している。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、総檜造りで造営された。

(以上、御由緒より)

ここ湯島天神は、江戸時代「富突」という現代でいうところの幕府公認の宝くじ発売所だったらしい。
谷中感応寺、目黒不動とともに「江戸三富」と称されていて、境内は熱狂した群衆で賑わったらしい。
さらに売薬香具の見世・楊弓場があり、宮芝居も多く行われていたりと、江戸町人の憩いの場だったようだ。

そういえば参拝した時期は「受験シーズン」でもあったので、天神様にあやかって境内を埋め尽くさんばかりの絵馬が並べられていた。
ちなみに絵馬発祥の地は、京都・貴船神社です。


北側にある夫婦坂を降って、参拝終了。

次回もまだまだ首都の社は続きます♪