16 October 2011

東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 鶴見神社

Location 日本, 神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1丁目14
旧東海道の古社
鶴見神社
(神奈川県鶴見区鶴見中央1-14-1御鎮座)


今回はJR鶴見駅から約7分程にある鶴見神社です。

鶴見神社の北を流れる鶴見川流域には「杉山神社」を祀るお社が多く、ここ鶴見神社も「杉山大明神」称し、延喜式内社「杉山神社」の論社とされている。

杉山神社のルーツは定かではないが、一説によると東国に進出した阿波忌部氏の一族が建立したのだという。
また、御祭神は五十猛命だというのも大きな特徴のひとつ。
横浜市都筑区の杉山神社についてご覧になりたい方はここをクリック

さらにここ鶴見神社の境内には昭和三十年代の発掘調査では、弥生時代~鎌倉時代にかけての祭祀具が発掘され、さらに平成二十年の発掘調査で、縄文時代の貝塚が遺存していることが確認された。そして周辺からは、貝塚と関連される古墳時代前期の竪穴式住居跡も発見されている。

鶴見川河口に程近いこの地は、太古の頃からの居住地であり、古代祭祀の中心地のひとつだったのであろう。

御祭神
二社相殿

杉山大明神
御祭神 五十猛命
天王宮
御祭神 素盞鳴尊

由緒

鶴見神社は往古は杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社でありました。
その創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられております。

続日本後記承和五年(約1180年前)2月の頃に「武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以って官幣を之に預らしむ。」とあります。
大正9年に鶴見神社と改称され、昭和37年、境内より弥生式後期から土師「古墳時代」を中心として鎌倉期に及ぶ、多数の祭りに使用された道具が発見され、推古天皇以前より神聖な地として、すでに祭が行われていたことと共に、横浜・川崎間最古の社である事が立証されました。
富士塚と浅間神社
横浜最古の神事芸能田遊びは、明治4年を最後に廃絶となりましたが、昭和62年に再興されました。以来杉山祭と呼称して田祭り保存会が結成され、毎年例祭日に奉納されております。

のちに天王宮が合祀されて二社相殿となりまた天王宮の大神輿は、鶴見川に流れついたと言い伝えられる横浜最古の神輿で、毎年古式豊かに渡御され、天王祭として盛大に取り行なわれております。

境内末社
稲荷社、富士浅間社、大鳥社、 関神社、 秋葉社
ちなみに境内末社の手前の石畳下に「鶴見神社境内貝塚」がある。

線路沿いで且つ商店街も近くにあるので、騒々しい環境にあるのかな?と思ってましたが、とても静かでのんびり出来るお社でした。

13 October 2011

東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 川崎稲毛神社

Location 日本, 神奈川県川崎市川崎区宮本町
旧東海道の古社
川崎稲毛神社
(神奈川県川崎市川崎区宮本7-7御鎮座)


今回は川崎駅からすぐ、第一京浜脇に鎮座されている稲毛神社です。
東京湾沿い(相模国‐総国)間には、パラレル・ワールドの如く(!?)近似した地名が多い。

例えば、ここ稲毛神社の稲毛という地名は千葉にもあるし、逆に寒川神社は千葉と神奈川に鎮座されているし。(相模国の寒川神社は相模国一宮)

他にも地図を見ると、結構同じ名の地名が多いです。

お暇でしたら、探してみてくださいな☆

さてさて、稲毛神社は旧東海道川崎宿の近くに鎮座されている。
稲毛神社の創始は定かでないが、社伝からすると、紀元1~2世紀には存在していたことになる。

旧社格は郷社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は山王権現、武甕槌神社等と呼ばれていた。

川崎稲毛神社

主祭神 武甕槌神
配神 経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神

旧御社殿跡
御由緒・御沿革

当神社の御創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が一千年と推定されるところから、当社の古社であることがわかります。

社伝によれば、第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり、当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられています。

鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当りました。
足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため、社領を二十石に削られてしまいました。しかし、この時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(1404)の大般若経六百巻施入の記録があります。
また新潟県の国上寺の現存する長禄二年(1458)銘の鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。

大鷲神社
(左の金属製覆殿に囲われた社は子神社)
秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜りました。とくに家康公江戸入部に際し、ご巡見のおり、当神社に御参拝あり、隨神門、神馬等の寄進を受けたとあります。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿及び河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬をあつめていました。

末社
右より、三峰神社・御嶽神社・八坂神社・大神宮・
松尾神社・金比羅宮・福田稲荷神社
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以後「河崎山王社」「五社山王」「三社宮」などとよばれていました。

末社
佐佐木神社・川崎天満社・白山神社・浅間神社
山王権現の称号は天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によりますが、慶應四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社に休憩され、その折の殿下のお言葉「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。

その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治中期には「稲毛神社」が固定しました。

御神水吹上げ井戸石枠
この地は水が悪く、住民は長い間たいへん苦労しましたが、この井戸だけはいつもこんこんと吹き上げんばかりに清水が湧いていました。
とくに、流行病のときなど、夜半に水垢離をする人が随分遠くから来たということです。
しかし、工場による地下水の汲み上げのためか、昭和の初期になると枯れてしまいました。

この石枠は川崎宿の旅籠屋中の寄進によるもので寄進者の名が記されていますが。文化八年(1811)と、文政十二年(1829)の二つの年号が刻まれています。

(以上、略記より)

鳥居脇に咲く藤の花。
とても落ち着くお社でした。

次回はもうちょい南下してみます☆


7 October 2011

東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 六郷神社

Location 日本, 東京都大田区東六郷3丁目10
旧東海道の古社
六郷神社
(東京都大田区東六郷3-10-18御鎮座)

 
今回は多摩川沿いにある六郷土手に程近い六郷神社です。

第一京浜から伸びる脇参道

第一京浜をテクテクと歩いていくと、建物に挟まれて鳥居と脇参道が伸びており、奥には広く開放感溢れる境内と立派な社殿が鎮座している。

六郷神社は江戸時代は「六郷八幡宮」と呼ばれていたらしく、『江戸名所図会』にも描かれている。
今は住居や町工場がひしめき合っている六郷地区だが、僅か300年程前は絵を見る限り、辺り一面が水田でポツンと一里塚とこのお社があっただけ、という何とも辺鄙(?)な場所だった。

創立については1057年(天喜五年)以前については不詳で、前回紹介した「式内社 稗田神社」の論社ともいわれているらしい。

神門と太鼓橋

梶原景時寄進と伝えられる石造りの太鼓橋です。

御祭神
誉陀和気命 (応神天皇)

一般に八幡様の御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、 比売大神(ひめおおかみ)の三柱の神様で、 六郷神社でも昔はこの三神をお祀りしていた。

しかし、あるときの曳船祭で、一座の神輿が上総(かずさ)の国に流されてしまい、もう一座の神輿はことのほかの荒神で、しばしば祟りを受けたので土中に埋めてしまった、とのこと。

御由緒

社伝によれば天喜五年(1057)、源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の白旗かかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられています。

文治五年(1189)源頼朝もまた奥州平定のみぎり、祖先の吉例にならい、白旗を立てて、戦捷を祈願したので、建久二年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。
現在、社宝となっている雌獅子頭と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。

(旧)六郷橋の橋脚

天正十九年(1591)徳川家康は神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長五年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と合わせて葵紋を用いる由縁は、ここにあります。

江戸時代には、東海道をへだてた西側の宝珠院(御幡山建長寺)が別当寺でしたが、明治維新によち廃され、明治五年(1872)東京府郷社に列格し、明治九年より六郷神社と称して今日に至っております。
(六郷神社参拝のしおりより)

手水石

この手水石は伝承によると、源頼朝が寄進されたといわれている。

尚、本殿は享保四年(1719)建立の本殿を改修。
拝殿・幣殿・本殿もとても美しく剛健な雰囲気が漂っていた。

境内社

境内末社として、天祖神社(天照大御神)、氷川神社(素戔嗚尊)、三柱社(日本武尊・大物主命・布津主命)、稲荷社(宇迦御魂命)が祀られている。

そして六郷神社で有名なのは、やはり写真の狛犬。
大田区文化財に指定されている。

この狛犬は、貞享二年(1685)六郷中町の有志が願主となり、二世安楽を祈って奉納したものである。

大田区内に現存する最も古い狛犬で、石工は三右衛門。
昔は社殿前にあったが、現在は社務所前庭に置かれている。

作風は、一般の狛犬と異なり、きわめて素朴かつユーモラスで、芸術誌にとんだ形態を示し面白い。
たとえば、へこみが深い大きな目、へん平な鼻、髪の刻みは浅く、先端を巻き、胴はずんぐりとして、尾は小さく上向きに立つなど、興味深い作品と言えよう。
(以上、境内掲示板より)

何ともシュールな狛犬のあるお社に続いては、多摩川越えて川崎へ♪


5 October 2011

東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 薭田神社

Location 日本, 東京都大田区蒲田3丁目2
旧東海道の古社
薭田神社 
(東京都大田区蒲田3-2-10御鎮座)

続いては、蒲田に鎮座している式内社、薭田神社について。

京急蒲田駅から、呑川にかかる「あやめ橋」なるいささか物騒な名を持つ橋を越えて、約10分程度歩くと到着する。
尚、石鳥居は寛政十二年(1800)の製作で大田区の文化財に指定されている。
お社の雰囲気が住宅街に囲まれているせいか、小ざっぱりとした様子。

延喜式内社 薭田神社 由緒
主祭神 誉田別命 相殿 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神
例祭日 九月十五日

抑も当社は三代実録・延喜式その他の古文書に明記せられたる由緒深き所謂延喜式内の神社にして蒲田創草の古社なり

和銅二年(七〇九)僧行基は天照・八幡・春日の三神体を造り本社に安置す 
後年僧日蓮は池上宗仲の舘に入るに及び村民の請を容れ改めて開眼すると伝う
清和天皇貞観六年(八六四)官社に列し従五位下を賜り
明治五年十月郷社に定めらる

安政四年(一八五七)拝殿を改築元治二年(一八六五)本殿を改築昭和四年拝殿・幣殿を改築昭和九年本殿屋根葺 き替え及び神楽殿を新築す
昭和二十年四月十五日戦災のため灰燼に帰す
昭和二十 一年九月十五日仮本殿を再建し昭和二十九年八月十五日 本殿・幣殿・拝殿を新築す

昭和三十一年八月十五日
(境内石碑より)

境内末社

境内社として(写真手前より)三十番神社、稲荷神社、薬祖神社が鎮座している。
参考として他の方のHPを拝見したところ、元々社名は蒲田の古字から由来しているらしい。

  次回も引き続き旧東海道の古社~大田区編です♪

2 October 2011

東京湾沿いの古社(旧東海道編) - 磐井神社

Location 日本, 東京都大田区大森北2丁目20
旧東海道の古社
磐井神社
(東京都大田区大森北2-20-8御鎮座)


少し余裕が出てきたので不定期ながら更新していきたいと思います♪
題して、東京湾の古社シリーズ。
第一回目は大森海岸沿いの社、磐井神社についてです。



この神社は敏達天皇二年(573年)創建という古社で、延喜式内社に比定されている。

また三代実録によれば、貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたとあるらしい。

御祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・姫大神・大己貴命が祀られている。

丁度参拝時に、宮司さんがいらっしゃったので、御朱印と略記を頂いた。
よって、それを基に書き綴ろうと思いましたが・・・

旧文体なので、全くわからない!

ということで、小生が現代語に訳してみました。
間違いがあったら、ご指摘下さいませ^^;

祭神:
応神天皇(中央)
神功皇后・姫大神(右)
大己貴命・仲哀天皇(左)

人皇三十代敏達天皇二年(573)八月に創建。

磐井神社の名は、現在境外地にある『磐井』と呼ばれる井戸から由来している。
「祈願の時、この水を飲むに、祈るところ正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち転じて鹽味(しおあじ)となる」霊水、そして薬水という話が近国に伝播してその名を広めたという。


五十六代清和天皇の貞観元年(857)に、六十余州に於いて総社八幡宮を選定する際、武州に於いては当社を総社に定められ、官社に列せられたと、「三代貫録」にて書かれている。

尚万葉集に、「荒藺崎(あらいがさき)笠島」と詠まれているが、平安当時の当社所在地の名称である。

本殿

当社の御神宝は『鈴石』という石で、この神社の所在地一帯を「鈴の森」と称される由縁にもなっている。
この石は、神功皇后の三韓征伐の際、長門国豊浦の海で発見され、玉座近くに置いて奉った。
また御凱旋の日は、御産屋に置かれると、無事平安皇子(のちの応神天皇)が出産され、御在位中も繁昌のご神徳があることから、この石を「如意の寳珠(ほうじゅ)と御稱美あらせられし」といわれた。

その後聖武天皇の御代、石川朝臣年足が、宇佐宮に奉幣の時に神告に因りこの霊石を授けられた。そして年足の嫡孫中納言豊人卿は、神勅に因り当社に奉納したという。

卍の刻がされた石盤
石盤上部の窪みには何故か貝殻が置かれていた
永生年中に兵火に遭い、本社末社焼失。
その後再建するも、天文年中重ねて火事に遭い、古文書など悉く焼失してしまい、再修復できず、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺してしまう。

その後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釋榮により社を再興する。

天正十八年徳川家康関東下向の際に参拝された。
その後元禄年間に三代将軍家光参詣し、その後当社を祈願所に申し付けるようになった。
さらに享保年間、八代将軍吉宗は伊奈半左衛門に本社拝殿末社を建立するよう命じた。

以下略
(磐井神社より頂いた御由緒~荏原風土記稿磐井神社由来より意訳)

磐井の井戸
これが、社名の由来となった磐井の井戸。
神社前を走る第一京浜の脇にひっそりと保存されている。

大田区文化財
磐井の井戸

当社社名の由来となったこの井戸、「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は、薬水と称されて古来有名である。
この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により、境域がせばめられたため、社前歩道上に遺存されることになった。
土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水、という伝説を昔から伝えている。

そして、境内右側には東海七福神のひとつ、笠嶋弁財天があったのだが、東日本大震災の影響により一部損壊、弁天池は立ち入り禁止となっていた。

なお、御由緒のとおり、この古社は万葉集にも詠まれていたとのこと。

東海七福神 笠嶋弁財天
延喜式巻第九
荏原郡二座 (並小)
磐井神社

万葉集第十二巻
草かけの、あら井の崎のかさしまを
見つつや、喜美のやまぢ越ゆらむ

草陰之荒藺之崎乃笠島乎
見乍可君之山道越良無

青々と葉が茂っていて立派なイチョウの木。
幹の太さといい、地方の社の御神木に負けない風貌をしております♪

次回は蒲田のお社です☆