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京都の社 橘氏の社 梅宮大社

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京都の社
梅宮大社
(京都府京都市右京区梅津フケノ川町30鎮座)

松尾大社から桂川を渡って四条通を歩いていくと、梅宮大社が鎮座している。
『延喜式神名帳』で名神大社に列し、仁明天皇の外戚の氏神として二十二社にも列した由緒ある古社で、藤原氏、源氏、平氏と並び、平安時代の四大公家といわれている橘氏の氏神を祀るお社でもある。

四条通から路地を曲がると、白色の石鳥居と「官幣中社 梅宮神社」の石碑があり、隨神門まで一本の参道となっていたが、残念ながら工事中で、多くの工事車両が路上駐車していたため、掲載しなかった。
ちなみに隨神門の二層部には多くの酒樽がお供えされていた。

神門から境内を眺める。
隨神門をはじめとする拝殿・本殿など境内の建築物の多くは元禄十三年(1700)再建のもの。

因みに境内の造りや、同じ酒造りの神(大山咋神)を祀っていることから、桂川の対岸に鎮座している松尾大社と類似点が多いように見受けられる。尚、記録によると、本神社の神官は代々秦一族が世襲していたらしいから、強い関係があったのであろう。

梅宮大社 (うめのみやたいしゃ)

御祭神
本座四座
酒解神(大山祇神)、酒解子神(木花開耶姫命)
大若子神(瓊瓊杵尊)、小若子神(彦火火出見尊)

相殿四座
嵯峨天皇、仁明天皇、
橘清友公、橘嘉智子(壇林)皇后

御由緒
当社は今から凡そ千三百年前、奈良時代の政治家であった橘諸兄の母・縣犬養橘三千代が、山城国綴喜郡井出寺の中に橘氏一門の氏神として現在の綴喜郡井手町付近に創建したのが始まりといわれる。

平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(壇林皇后)によって現在の地に移された。
酒解神(大山祇神)、大若子神(瓊瓊杵尊)、小若子神(彦火火出見尊)、酒解子神(木花開耶姫命)の四座を祭神とする。


酒解神の御子・酒解子神は大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから、歓喜して、狭名田の稲をとって天甜酒を造り、これを飲んだという神話から、古くから安産と造酒の神として有名である。
また、皇子に恵まれなかった壇林皇后が、本殿の横に鎮座する「またげ石」をまたいで子供を授かったことから、この石をまたげば子宝に恵まれると伝えられ、その下の白砂は安産のお守りとされている。

その後、延喜式の明神大社二十二社の中に列せられ、明治四年官幣中社に列せられた。

酒解神(大山祇神)・大若子神(瓊瓊杵…

京都の社 「三柱鳥居」 木嶋坐天照御魂神社

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京都の社
木嶋坐天照御魂神社 (蚕の社)
(京都府京都市右京区太秦森ヶ東町50番地鎮座)

京福電車・蚕の社駅前に一の鳥居と石灯籠があり、そこから徒歩5分程度の地に木嶋坐天照御魂神社が鎮座している。
本神社は延喜式神名帳にて明神大社に列せられていた古社。
渡来系氏族・葛野秦氏が建立したとされる広隆寺の真東にあたり、同寺南門と当社鳥居はほぼ面 を合わせている。

この神社は通称『蚕の社』とも呼ばれ、境内に鎮座する蚕養神社に因んでいる。

本神社が鎮座する太秦・嵯峨野一帯は、先土器時代の時代から人々が居住していたといい、多くの住居跡や土器、銅鐸などが出土されている。

また中国より朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が3世紀頃に製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んだとされ、この地一帯はかつて養蚕や機織産業が盛んだったことが窺える。

機織り(はたおり)の語源は秦織り(秦氏が伝来した織り方)ということなのかな?

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)
通称:蚕の社 

祭神
天御中主命
大国魂命
穂々出見命
鵜茅茸不合命

この神社は、通称「木嶋神社」又は「蚕の社」と呼ばれる延喜式内社で、天御中主命・大国魂命・穂々出見命・鵜茅茸不合命を祀っている。 「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、それ以前に祭祀されていたことがわかる古社である。

嵯峨野一帯は、古墳時代に中国大陸や半島から渡来し、製陶・養蚕・機織などに優れた技術をもっていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養神社(東本殿)があり「蚕の社」もそれにちなんだ社名である。
 この神社は、古くより祈雨の神として信仰が篤く、参詣の人も多かったことが平安時代に書かれた「日本三代実録」や「梁塵秘抄」などの文献からうかがい知ることが出来る。 社殿は明治以後のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を取囲むように巨樹が繁茂している。

本殿の西側には四季湧水する「元糺(もとただし)の池」という神池があり、天保2年(1831)に再興された京都三鳥居のひとつとされる石製三柱鳥居が建つ。

例祭は、毎年10月10日に行われるが、夏期土用丑の日には、この池に手足を渡すと諸病によいという庶民信仰がある。

市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧き、巨樹が繁茂して古来の姿をよ…

京都の社 崇道神社境内社と里堂

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京都の社
崇道神社 境内社と里社
(伊多太神社・小野神社)


鬱蒼とした森の中に鎮座する崇道神社。
祟りを鎮魂する神社の沿革と相まって、とても重い空気が漂っているように感じた。

このお社の境内には延喜式内社が二社ある。

参道の西側に鎮座しているのが伊多太神社。
元当村(上高野)の氏神である伊多太大神を祭神としたお社である。

御由緒
伊多太神社は、洛北唯一の古い神社で、祭神伊多太大神は元当村氏神であった。
湧水の神・農業の神で都の丑寅に当たるので、小野神社2座(祭神小野妹子天武天皇重臣小野毛人)と共に王城の鎮護神として延喜5年延喜式内社と成った。

伊多太は、湯立の訛で社前には池ノ内・市川・大湯出等の良田がある。 往古より伊多太神社の神事(湯立儀)は出雲系と同様の神事で坐女は宮中に奉仕した。近世には、知恵の神として都人多数に崇拝されている。 明治41年7月当地崇導神社に合祀された。
(境内案内板より)
尚、末社は鎌倉社・日吉社・三穂津社・三輪社・足之社・教之社の六社。

対して参道の東側には小野神社が鎮座している。
遣隋使で有名な小野妹子命とその子、小野毛人命が祀られている。

小野神社の手前にある杖置きと打たせ滝。

御由緒
小野氏が創祀した神社で小野一族を祀る。以前は崇道神社里堂の南方に石垣があり、ズンショの森と祠があった。現在の小野神社は昭和46年、地元有志により再建された。

慶長18年、崇道神社境内の山腹から小野毛人の鋳銅製の墓誌が発見された。大正3年、墓が調査され、板石で作られた石室は長さ2.5m、幅及び高さ1mで封土が施されていた。墓誌は国宝に指定され京都国立博物館に保管されている。

ちなみに小野神社境内には、写真のような石窟があったり無数の地蔵が並べられていていたりと、祟りを鎮める社としての雰囲気がムンムンとしていた・・・。

さてさて、折角だから崇道神社の里堂にも行ってみた。
叡山電車の線路の先は比叡山。

京都は何気ない風景も画になってしまう。
府民に対して妬んでしまうほど。

集落の中心にある里堂は周囲を生垣に囲まれていて、扉には鉤がかけられており、単なる神輿庫にしてはとても頑丈な造りになっていた。

ここの里堂でも神事が行われているという。
手入れの行き届いた植木、キレイにされていた敷地とお堂を見ていると、何かこの地に深い意味があるような気がしてきてならない。


次回…

京都の社 崇道神社 御霊信仰の社

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京都の社
崇道神社
(京都市上高野西明寺山鎮座)

崇道神社は、貴船神社同様に京都北東(丑寅・鬼門)に位置している神社で、御霊信仰の神社として有名なお社。
御霊信仰とは天災や疫病などの発生を、恨みを持って死亡した者の怨霊によるものと考えて、この霊を御霊として祀り、祟りを鎮める信仰のことで、平安時代以降盛んになった。

分かり易い有名な例では「八所御霊」の一神・菅原道真の火雷神。
(全国の天神さまや天満宮で祀られてます)

人を謀るようなことをして、恨みを買うようなことをしてはなりませんね・・・。

京都大原から流れる高野川の清流。
とても情緒を感じさせる日本的な風景。
この川沿いにある鬱蒼とした森の中に崇道神社が鎮座している。

御祭神の早良親王(さわらしんのう)は実兄であった桓武天皇の対抗勢力の中心人物と目されていた。
そこで桓武天皇は延暦四年(785)、平城京から京都長岡京へ遷都する最高責任者(造宮使)に任命されていた藤原種継の暗殺事件に関与した罪を実の弟に被せた。
その後親王は捕まり、淡路に配流(島流し)の最中、無実を訴えるために絶食したが、河内国高瀬橋付近で憤死してしまった。

早良親王が亡くなった後に遷都するも、日照りによる天災や悪疫が流行し、桓武天皇の妃三人や母が相次いで病死、さらにその皇子(のちの平城天皇)まで病を患ってしまった。

『これは早良親王の祟りだ!』

とされ、その怨霊を鎮めるために『崇道天皇』の追号を贈り、貞観五年(863)には神泉苑で御霊会がおこなわれたという・・・。

崇道神社(すどうじんじゃ)

奈良末期~平安初期の皇族、早良親王を祀る。
早良親王は光仁天皇・高野新笠の子で、桓武天皇の実弟である。延暦四年に起った藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に霊閉された後、淡路に流される途中、無実を主張して絶食死した。

その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の祟りと噂され、その怨霊を鎮めるために延暦十九年には崇道天皇と追号を送り、墓を現在の八島稜へ改葬した。

ほかに藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである。

京都市案内板
当社は桓武天皇の皇弟早良親王(崇道天皇の諡を追尊)を奉祀する旧高野村の産土の社でその創建年代は詳かでない。
延暦四年に造長岡京使藤原種継暗殺…

京都の社 貴船神社 奥宮と船形石

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京都の社
貴船神社 奥宮

結社参拝後、奥宮へ。
参道を10分~15分程歩くと、奥宮の鳥居、そして思ひ川が見えてくる。
思ひ川には橋が架かっており、朱色の欄干のある趣き深い橋だったようだが、小生の参拝時は残念ながら工事中。
欄干の代わりに朱色のコーンが置かれていました。

思ひ川
夫・橘道貞の愛を取り戻そうと思い悩んだ和泉式部は、貴布祢詣でを思い立ちました。
当時は奥宮が本社で、参拝者はこの谷川で手を洗い、口をすすぎ、身を清めてから参拝しました。

この谷川は禊の川、物忌の川だったのです。
和泉式部もここで身を清めて恋の成就を祈ったのでしょう。
禊の川だった「おものいみ(物忌)川」が、和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。
(境内案内板より)

思ひ川を越えて、参道を歩いていくと神門、そして奥宮が鎮座している。

貴船神社 奥宮

当地は、貴船神社が当初創建されたところで、当社の祭神も本宮と同様、水や雨を司る神「高龗神」である。
本来はここが「本宮」だったが、しばしば水害に遭い天喜3年(1055)に貴船神社本宮を現在の地に遷座したという。
社伝によれば、「反正天皇の時代(五世紀初頭)に、玉依姫命(神武天皇の母)が黄船に乗って浪速(大阪)から淀川、鴨川、貴船川をさかのぼって当地に上陸し、そこに祠を営んで水神を祀ったのが当宮の起こりである」とのことで、地名及び社名の起源をこの「黄船」にもとめる説もある。

境内の本殿横には、この伝説にまつわる「船形石」があり、これを積み囲んだ小石を持ち帰ると航海安全にご利益があるとされた。

また、本殿下には巨大な龍穴があり、文久年間(1861~1863)の本殿修理の際、大工があやまってノミをこの中へ落としたところ、一天にわかにかき曇り、突風が起り、ノミを空中へ吹き上げたという。このほか、宇治の橘姫伝説や和泉式部の恋願成就など、当社にまつわる逸話は数多い。

京都市案内板より

奥宮本殿の御鎮座伝説に、「川のそばから水の湧き出る所があり、そこに一宇を設けた」とある。
現在、水は涸れているが、奥宮本殿の下には「龍穴」といって大きな穴が開いているという。
『御神体のような神聖なもの』という理由で、誰も見ることは出来ないという。

しかし、昨年(平成23年)に150年ぶりに神聖な龍穴の御姿が現れた。

平成23年12月に天保1…

京都の社 貴船神社 結社

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京都の社
貴船神社 結社

本宮の次は結社(ゆいのやしろ)へ。
本宮~結社~奥宮をつなぐ参道には数多くの旅館や割烹などが立ち並んでいる。

有名なのは「川床」と呼ばれるもの。
その名の通り、貴船川の上に床を作って、その上で食事や宴会などが出来る。

さて、本宮から徒歩約10分程度で結社に到着。
ここ結社の御祭神は磐長姫命。
因みに「縁結びパワースポット」として有名らしいです。


結社
御祭神 磐長姫命 (いわながひめ)
御由緒
神武天皇(初代の天皇)の曽祖父にあたれられる瓊々杵命が、木花開耶姫命を娶らんとする時、父の大山祇神が姉の磐長姫命も共におすすめしたが、瓊々杵命は木花開耶姫命だけを望まれたため、磐長姫命は大いに恥じ、「吾、ここに留まりて人々に良縁を授けよう」といわれ、御鎮座したと伝えられています。


古くは縁結びの神、「恋を祈る神」としての信仰が篤く、平安時代の女流歌人・和泉式部が切ない心情を歌に託して祈願したという話は有名です。
昔はススキ等の細長い草を、今は「結び文」を神前に結び付けて祈願する習わしがあります。男女間の延だけでなく、人と人、会社と会社、就職、進学などあらゆる縁を結んで下さる神様です。
境内には和泉式部歌碑があり、ここにも彼女に纏わるお話がある。

貴船神社は、古来、恋を祈る社でもありました。
平安時代の有名な歌人・和泉式部は、夫との仲がうまくいかなくなって当社にお参りし、貴船川に飛ぶ蛍を見て、切ない心情を歌に託して祈願しました。すると、社殿の中から慰めの返歌が聞こえてきて、ほどなく願いが叶えられ、夫婦仲がもとのように円満になったということです。

「後拾遺和歌集」には次のように記されています。
男に忘れられて侍りけるころ貴布禰に参りて
みたらし川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる 「物思へば 沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる 魂かとぞみる」 (あれこれと思い悩んでここまで来ますと、蛍が貴船川一面に飛んでいます。
そのはかない光は、まるで自分の魂が体からぬけ出て飛んでいるようでございます。) 御返し
「奥山に たぎりて落つる 滝つ瀬の玉散るばかり 物な思ひそ」 (しぶきをああげて飛び散る奥山の滝の水玉のように
魂がぬけ出て飛び散り消えてゆく(=死ぬかと思うほど) そんなに深く考えなさるなよ。)  この歌は貴布禰の明神の御返しなり、
男の声にて和泉式部が耳に聞こえ…