東京湾の社 上総の古社 飽富神社

東京湾のお社 
飽富神社
(千葉県袖ケ浦市飯富字東馬場2863御鎮座)

東京湾沿いの古社巡り、これまた一年越の更新で何とも心苦しいです・・・。
前回は、東京都大田区から川崎市周辺を巡ってみたが、今回は千葉県側を中心に巡ってみた。

第一目は、千葉県袖ヶ浦市に鎮座する飽富神社へ。
JR袖ヶ浦駅からローカルバスをつかまえて、揺られること20分。
飽富バス停から高台を登った場所に神社が鎮座している。

神社周辺から眺めた内房の風景。
往古、下に見える田畑は浅瀬になっていて、きっと海に面していたのであろう。
尚、この辺りにはお袖塚古墳など多くの古墳があるのだが、調査不足で辿り着くことが出来なかった、残念。

銅鳥居
飽富神社は、上総国望陀郡 飫富神社として延喜式神名帳に記載されている式内社で旧県社。
名前や由緒から想像できるように、多一族が当地に入植した際に祀られたと思われる。
(多一族の総本社は奈良県田原本町に鎮座している多神社

本神社の現在の主祭神は倉稲魂命(ウガノミタマ)。
もしかしたら、稲荷信仰の影響を受けて、差し替えられたのかな?と想像。
過去の文献だと、天富命や、多一族の祖神・神八井耳命が祭神だったという記述があるようだ。

境内
飽富神社 (あきとみじんじゃ)
祭神
倉稲魂命
由緒
この神社は、平安時代初期に編集された「三代実録」という史書や、「延喜式」という法令集の中にすでにその名が記されている式内社で千年以上も前から存在した古社です。
旧称を飫富(おおとみ)神社といい、県内では香取神宮・安房神社など十八社ありますが、君津地方では唯一のもので、歴史的価値の高い神社です。

拝殿
創建は、社伝によると第二代綏靖天皇元年(BC581)で、天皇の兄「神八井耳命」が創建したと伝えています。祭神の主神は「倉稲魂命」という稲の神、すなわち農業神で、古くから農民の信仰を集めてきました。
例大祭は七月二十四日に行われています。

現存の社殿は、元禄四年(1691)に再建されたもので、全体として権現造りになっている。
本殿は流造りで、拝殿は入母屋造りです。
棟札は、杉材を用いてあり、表裏にそれぞれ次の墨書銘があります。
(表) 卍奉 新造立大明神大殿一字所
(裏) 元禄四年歳 卯月二十一日

袖ヶ浦市教育委員会

本殿
本神社の筒粥神事は形式的なものではなく、
古式にのっとった方式で現在に受け継がれている。

飽富神社の筒粥
伝承地 袖ヶ浦街飯富2863
今日の飽富神社は、式内社の飫富宮にあたり、この神社の筒粥は、隣接する国勝神社の筒粥とともに、毎年一月十四日の深夜から十五日の未明にかけて行われます。

小河平左衛門家の当主が、十三日の夜から十四日の未明にかけてひそかに葦を切ってくる。
中山市左衛門家の当主が、いろりの鉤と箸(ともに柳の木を用いる)をととのえ、多田兵庫家の当主が、粥の米と版木を持ってくる。十四日の夜には神社のの役員等が七十五本の葦筒をつくり一定の数にわけてそれぞれ編んで束ねる。

拝殿内
深夜の零時に、数人の若者が裸で水を浴びて身を清め、ヒノキの板ときりで神聖な火を切り出し、この火で粥を煮る。粥に葦筒を入れてかきまぜ、神前での儀式の後にそれらの葦筒を裂いて筒のなかに入った粥の分量で、大麦、小麦、麻衣、早稲、中稲、晩稲、稗、粟、大豆というように、作物の作柄を占います。地元の人々は、その結果を見にくるとともに、牛王串をうけて帰ります。

この神事は、禊が慣行され、旧家の役割が引き継がれるなど、年占いの古いかたちを残しているもので、作物の作柄を占う農耕儀礼のひとつとして本県民の生活文化の特色を残す典型的なものといえます。

袖ヶ浦市教育委員会
天神七福神
この天神七福神像は今から二百五十年前「明和五年」飽富神社神主深河常陸介喬栄により画かれたものです。
今日の七福神像は大国様と戎様以外はインドや中国の神様・高僧にて構成されており、この様に日本の神様のみの七福神像は大変珍しく飽富神社以外では兵庫県の西ノ宮神社にあるのみで資料的にも貴重なものです。

中央の女神 倉稲魂命
中央右側の女神 市杵嶋姫命
中央左側の御神 少彦名命
御手に袋入りの太刀を持った御神 大己貴命
御手に釣り具を持った御神 事代主命
御手に榊を持った御神 猿田彦命
御手に弊を持った御神 天児屋根命

東照宮
本殿右脇に鎮座する東照宮。(祭神:徳川家康公)
案内板によると、社中に源頼朝公を祭神とした「白幡権現」を勧請し、又、新田義貞公を「新田八幡」として勧請しそれぞれ祀っているという。
上記以外にも、本殿を取り囲むように、七十五社もの末社が祀られているという。


御末社は、古来より七十五末社と称せられ、神域内に齎き祀る。
三百年前の神社々記
市正傳記より

七十五末社

古語に「七五の御代」という語がある。
七は神代系図 天神七代の國常立尊から、七代の数の七で、五は地神五代の神・天照大御神より五代で、即ち、皇統の祖神にあらせらるる五柱の神なり。
七と五の数字をとは聖数として、七福神、七五三、七権現、七賢、五言、五山、五事、五常、五霊等あり。

当社の七十五末社は、この七と五の数字をとり、制定せしものと思われる。
(境内案内板より)

本殿後:東之方御末社5社本殿後:西之方御末社5社。
本殿:東之方御末社20社。本殿:西之方御末社13社。
亥之方(北北西)御末社9社。南方御末社3社。
寅之方(東北東)御末社4社。卯之方(東)御末社2社。
北方御末社10社。丑之方(北北東)御末社2社。
申之方(西南西)御末社2社。合わせて75社75座。

御神木
御神木の銀杏の大木。
「父之木」と呼ばれていて、この木は三代目の御神木とされている。
樹齢は凡そ三百年とのこと。

鬱蒼とした森の中に囲まれた趣のある御社殿。
大社と比べると壮麗ではないものの、関東地方には珍しく「歴史の重み」を感じるように見える。
ちなみに社名は、古代の中央豪族飫富(おふ)氏にちなんだ「飫富神社」であったが文字の誤伝から、「飯富(いいとみ)神社」「飽富(あきとみ)神社」と代わっている。

出雲大社遥拝所
境内にひっそりと立つ出雲大社遥拝所。
折角なので、両社の鎮座地を調べてみると・・・
北緯35度25分15秒 飽富神社
北緯35度23分55秒 出雲大社
と、ほぼ同北緯なのである。(ちなみに誤差は4936m)

出雲と多氏って何か関連があるのか、それとも地元有志が奉納したものなのか・・・。
(ちなみに明治時代の銅板画集『日本博覧図』には遥拝所が記載されていた。⇒LINK参照)

緑深き境内
ちなみに鎮座地である『姉ヶ崎』の語源は、日本武尊が相模国から東征の折り、走水(東京湾)を渡る途中で大しけに遭ってしまい、そのとき妃の弟橘媛が海中に身を投げて海神の怒りを鎮め、弟橘媛の袖が海岸に流れついたという神話から起因している。


緑多き境内に木漏れ日が差して実に気持ち良いお社でした。
次回は姉ヶ崎に鎮座する古社です。

Comments

Popular posts from this blog

沖縄久高島巡礼 徳仁川拝所と久高島の町並み

信濃探訪 : 守矢史料館 一子相伝の古代諏訪口伝

「今伊勢に坐する元伊勢」 酒見神社