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Showing posts from January, 2012

宮城の社 青麻神社

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東北祈念の旅
青麻神社
(宮城県仙台市宮城野区岩切青麻沢32番地鎮座)

続いては、宮城スタジアムがある宮城県民の森の中に鎮座する青麻神社について。
ここ青麻神社は全国に点在する青麻神社の総本社と言われている。
神紋(マーク)は麻の葉を用いており、麻を祀る社である。

社号や附近にある色麻町などから連想できるように、鎮座地一帯は麻の産地であった。
日本では、太平洋戦争後米帝の指示により、大麻取締法が施行され、栽培・利用などに禁止措置が加えられたが、それ以前はそれこそ縄文時代から広く日本にて利用されていた。

神社にて配布される『神宮大麻』という名に代表されるように、麻は古来から神聖なものとして扱われ、麻に神仏が降りたとされており、儀式以外でも繊維素材や薬として重用されていた。

麻について日本人ならば最低限として、この位は頭に入れておくべき。
一番愚で危険なのは、先入観を持って反射的に『ダメなものはダメ』と思考不能になってしまうことだと思うのだが。

青麻神社

御祭神
天之御中主神・天照大御神・月読神
併祀
常陸坊海尊(清悦仙人)
境内社
山神社、御井神社、七福神祠

由緒
社伝によれば、第五十五代文徳天皇の御代の仁寿二年(852)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(京都)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天之御中主神・天照大御神・月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本社の創始と伝え、社名・地名も麻の栽培より起り、神紋も又麻の葉を用いる。

仙台藩封内風土記(1772)にも、「岩切邑 本邑山中青麻と号する地あり 往古この地麻を植う 故に以て地名と為す岩窟あり高さ一丈余・・・」と記している。
天和二年(1682)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。

古来より中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)等の特殊信仰があり、各地青麻神社の総本社である。
古くは、青麻岩戸山光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称し、中世から近世の古図や文献にも記載が見える。
(青麻神社略誌より)

次回は多賀城市のお社へ。

宮城の社 鹿島天足別神社、と傾いた亀石

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2011年宮城祈念の旅 鹿島天足別神社 (宮城県黒川郡富谷町大亀字和合田2-81-2鎮座)

前々回鹿島御児神社について記したが、今回は少し山間に鎮座している鹿島天足別神社について。 ここの神社は大亀山の山頂にあり、亀石と呼ばれている巨石が鎮座されている。
大亀山一帯は自然公園となっているが、震災の影響なのか多くの施設は立ち入り禁止になっていた。 被害はここ鹿島天足別神社も同様。
石鳥居は総本宮・鹿嶋神宮同様に倒壊していた。

鹿島天足別神社(かしまあまたりわけ)
この神社は延喜式内社で、陸奥國百座の内の一社で、常陸國の鹿島の神、武甕槌命、下総國の香取の神、経津主命を祀っている。
この二柱の神は武勇をもって知られ、蝦夷征伐に出兵した人々の武運長久や旅の安全、さらに東国からきた兵士や、農民の守護神として、尊敬を集め祀られた神社で、勧請年月日は不明である。

この神社の傍らに亀の形に似た大石があり、里人は大亀と呼び大明神の地にあるので、神社名(大亀明神)となり、さらに村名(大亀)となったといわれる。
(境内案内板より)

さて、東北地方にある鹿島社についてだが、茨城・鹿嶋神宮から浜通り一帯、そして宮城一帯にかけて多くの鹿島社が鎮座している。

「三代実録」の貞観八年(866年)正月二十日の条には、鹿島大神の苗裔神(御子神)が陸奥國に三十八社あると記されており、その内今日の福島県に属するものが22社、残りは宮城県に含まれている。
福島県ではみな浜街道(浜通り)沿いにあり、阿武隈河口にある亘理郡から海沿いの牡鹿郡、他方は黒川・色麻などの内陸の諸郡へと別れて進んでいる。
鹿島の神の北上が蝦夷の討伐に大きな役割を果たしていたことはいうまでもなく、ヤマト政府は武力平定のためには、大量の武装移民を送り込む一方、天津神を祀る神社を利用した。
(谷川健一著 日本の神々より)
それはつまり、蝦夷に対する教化が目的だった。
蝦夷が祀っていたアミニズム信仰の聖地であった神奈備(御神山)や磐座(巨石)を占領して、ヤマト王権の祀る神を祀り、ヤマト政府の「権威」を見せしめ、ヤマト文化の「教化」を図っていったのであろう。

そして、東北の鹿島社には鹿島大神とともに御子神が合祀されている場合が多い。
それはもしかしたら原住民に懐柔させる目的で、蝦夷の信仰が篤かった神を合祀したものかもしれない。

このような政策はこ…

宮城の社 零羊崎神社 (石巻市牧山)

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東北祈念の旅
零羊崎神社
(宮城県石巻市湊牧山鎮座)

日和山の北東牧山の頂(標高255メートル)に鎮座する明神大社・零羊崎神社(ひつじさき)へ。
道中にあった明神大社~拝幣志神社に参拝する予定だったが、震災・津波の被害により、悉く損壊していた。
拝幣志神社は牧山付近にある箱崎山の頂上から麓に遷座されたという。
理由は定かではないが、往古から鎮座していた地であれば被害に遭わなかったであろう。

鬱蒼とした森林、視界を遮る程の濃霧、そしてひっそりと建つ石鳥居。
幻想的な牧山の頂に、霊験深さを感じてしまう。

零羊崎神社
御祭神 
豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
大海津見神(おおわたつみのかみ)とも申し神武天皇の御母・玉依姫命の御父神にあたられ、海上守護の神であります。

由緒
今から1800年前、応神天皇2年に神功皇后の御勅願により涸満瓊別神(ひみつにさけのかみ)という名を賜り東奥鎮護のため牡鹿郡龍巻山(たつまきやま)にお祀りされました。
社号は年を経て零羊崎(ひつじさき)となり、龍巻山の龍は除かれ牧山となったのであります。

爾来皇室をはじめとして国司・領主の崇敬が篤く、貞観元年正月(1140年前)に従四位下に位を進められ、1080年前の延喜の制には明神大社に列せられ明神祭にあずかり、朝廷より幣帛を奉られたのであります。

毎年4月8日、9月9日は大祭事と定められ、みこしを海岸に渡御し、「須賀の市」という市も催され大変な賑わいを呈した。
また千石船は航海毎に当社に祈願し、今も全国の石巻入港漁船は海上安全大漁成就を、農家は五穀豊穣を、商家は商売繁盛を祈願し、高来尊い御神徳を蒙っております。
(略記より)

さて、涸満瓊別神は潮の満干を司る神といわれ、「涸」は海水が枯れる、「満」は海水が満ちる、「瓊」は玉という意味。

「涸」と「満」の「瓊」といえば古事記での海佐知彦・山佐知彦のお話。
兄・山佐知彦にいじめられていた弟・海佐知彦は、大海津見神から二つの玉を授かった。


ひとつは兄に攻められたときに潮を満ちさせる力を持つ塩盈玉(しおみつたま)、もうひとつは満ちた潮を干かせることが出来る塩乾玉(しおひるたま)。
その二つの玉を用いて兄を懲らしめて、やがて、わたつみの神の娘~玉依姫(たまよりひめ)と結婚して、後の神武天皇を産んだという。
(かなーり話を要約しました。ちなみに玉依姫の本来の姿は…

宮城の社 鹿島御児神社 (石巻市日和山)

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2011年東北祈念の巡礼
鹿島御児神社 (宮城県石巻市日和が丘2-1-10鎮座)
鹿島・香取神宮から福島浜通り~東北地方にかけて、『鹿島』神社が数多く点在している。 又、延喜式神名帳においても陸奥國に8社もの鹿島社が式内社に比定されている。
黒川郡 鹿島天足和気神社  亘理郡 鹿嶋伊都乃比氣神社、鹿嶋緒名太神社、鹿嶋天足和氣神社  信夫郡 鹿嶋神社  磐城郡 鹿嶋神社  行方郡 鹿嶋御子神社 牡鹿郡 鹿嶋御児神社 
通説だと、鹿島社は大和政府による蝦夷征伐の拠点で、いわゆる交通や防衛の要衝に設置されており、前線基地であったといわれている。そして、石巻の日和山にある式内社・鹿島御児神社も、石巻港を一望でき、旧北上川沿いの丘の頂という好立地な場所に鎮座している。
鹿島御児神社
御祭神:
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
鹿島天足別命(かしまあまたりわけのみこと)

鹿島御児神社の御由緒は古く、その創建の由来縁起についてはこれを明らかにする史料はありませんが、平安時代の「延喜式神名帳」には既にその名が見られ、国史現在社として最も由緒深い神社です。

御祭神は武甕槌命、鹿島天足別命の親子二神で、武甕槌命は天孫降臨に際し、葦原中つ國の平定に御功績を挙げられた神であり、また、その御子神である鹿島天足別命は香取神宮祖神の御子神と共に命を受けて海路奥州へ下向し東夷の征伐と辺土開拓の経営にあたることとなりました。

その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着碇泊して錨を操作した際、石を巻き上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝えがあります。

石巻に上陸された両御子は先住蛮族地帯であった奥州に於ける最初の史跡を印した大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な勲績を残された地方開拓の祖神です。

古くより使藩主等の尊崇も厚く、社領・宝物の寄進、社殿の修築等がなされてきました。
明治七年には旧村社に列し、大正十年に旧郷社に列格。昭和十年には旧県社に列格しました。

(以上、参拝のしおりより)

日和山から旧北上川を挟んで北東の位置に牧山という山があり、零羊崎神社という明神大社が鎮座している。
ここ鹿島御児神社は開発と戦いの神を祀り、零羊崎神社は海に由来する神を祀っている。

さて、牧山から日和山の麓一帯は、松尾芭蕉・奥の細道などで『尾駮(おぶち)の牧』といわれていたらしい。
「おぶち」で…

雪の松島

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宮城の社 石神社 (石巻市雄勝町)

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2011年宮城祈念の旅
石神社
(宮城県石巻市雄勝町大浜字石峰大久保山1鎮座)

鼻節神社の鎮座地である七ヶ浜町の惨状を目前に、茫然自失となってしまった。
至る所で高さ数十mに積み上げられた「ガレキ」の堤、そこから発する鼻を抓みたくなるような悪臭、家の門しか残っていない住宅街、今だに田畑に放置されたまま転がっている主のいない乗用車等々・・・。

その後、陸奥國一宮・塩竈神社及び周辺社を参拝したが、七ヶ浜での想像を絶する光景に強いショックを受けてしまい、『心此処に非ず』となってしまった。

何とか平静を取り戻して、向かうは三陸海岸の石峰山という里山。

雄大な北上川を河口に向かって走る。
この流域も津波が川を遡上したせいで被災していた。

さて、リアス式海岸の起伏激しい道を抜けて、山神社の里宮である葉山神社へ。
元来石峰権現社の別当寺として祭られた薬師堂で、鎌倉末期の創祀と伝えられている。
尚、朱色の小さな鳥居にあるお社は祖王神社という雄勝町の祖神の社。

鳥居をくぐると、アルミ製の手すりが津波によって大きく変形していた。
更に海抜10メートル程の高台に鎮座していた社殿も悉く全壊していた。
荒ぶる自然の強大な力に対して何もすることができないのだなと、とにかく胸が痛む。

痛ましいお姿になられてしまった社殿を横切り登っていくと、石神社の鳥居。
どうやら神職さんの住居等は被害に遭われなかったようだ。

ここから石峰山の頂を目指す。(といっても標高352mの低山だが)
石神社は、山岳修験者の霊場として古より守り伝えられてきた厳かな霊気のなか石峰山山頂に鎮め奉られている。
また、延喜式神名帳にて式内社に比定されている由緒ある古社である。

登山道も震災の影響で足場は悪くなっており、土砂崩れも発生していたのか、木々があちこちに散乱していた。
写真は、道中祀られていた愛宕山の遥拝所。

山道は落葉に隠れてしまっていて、何処を歩いているのか分からなくなっていたが、ケータイに内蔵されている方位計で確認しながら登った。

道中にあった空洞岩。
岩に小さな穴が開いており、『この穴に結願成就を願って参拝する人達がおり、小銭をのせて願い事を唱える祈願の岩』とのこと。(社務所看板より)

登ること約40分で到着。
朱鳥居の先に御神体である磐座のお姿を拝むことができる。

(由緒)
御祭神: 端津姫命
石(いその)神…

宮城の社 明神大社 鼻節神社 (宮城県七ヶ浜町)

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2011年宮城祈念の旅 鼻節神社 (宮城県宮城郡七ヶ浜町花淵浜字誰道1御鎮座)



陸奥國一宮・鹽竈神社と同一神である岐神を祀り、延喜式神名帳で明神大社に比定されていた鼻節神社。

三角形の扁額がとても珍しい。

鼻節神社は七ヶ浜半島の東端にある垂水山(誰道が訛った?)の山頂に鎮座するお社。
現在の参拝ルートはすぐ奥にある二の鳥居を左折すると裏参道となっていて、丘を下らず参拝できるが、折角なので本参道から入場することにした。

参道・・・といっても、鬱蒼とした林道の中を進む。

そして丘を半周して南側に立ったところで、石鳥居が。
すぐ先に海が面しているにもかかわらず、この鳥居はどうやら無事だった模様。

この辺で御由緒を。

鼻節神社

鼻節神社は第六代孝安天皇の御代(前392~前291)に、岐神(ふなどかみ)として猿田彦命を花渕浜吼防ヶ崎に勧請して、神社を創建したと伝えられている。

都より神宮が下向して祓い清めたという記録があり往時の鼻節神社が霊験あらたかで朝廷の尊信を受け、民間の信仰を篤かったと思われる。
(駐車場掲示板より)

御祭神 猿田彦命
例祭日 旧九月二十八日

本社創紀の年代は古書によると第三十四代舒明天皇二年(630)といわれ、第六〇代醍醐天皇の延喜五年(905)に全国の神社を調査せしめた延喜式内神明帳には、当時陸奥国にある壱百座を大まかに分け大社十五社小社八十五社とし本社は明神大社に列せられている。


後に鎌倉時代陸奥国府(多賀城)の主厨であつたといわれる花渕浜の館主花渕氏累代の崇敬篤く、社殿の造営、祭事が相次ぎ社敷場や地名に残る祭田、神田、社領の遺名であるその盛大さを偲ばせます。
(鳥居に刻まれていた案内より)
鼻節神社が鎮座されている垂水山は、松島湾の西端に存在しており、塩竈湾へ入港する際の目印となり、さらに奥州平定における拠点であった多賀城を防衛する要衝だったと思う。
それは東国三社における息栖神社のような役割だったのか?

ちなみに旧社地は保ヶ崎(現社地の南側)に鎮座していたが、度重なる暴風雨による損壊により、宝亀元年(770年)に現社地に遷座したという。

二つの小さな祠は大根(おおね)神社といい、花渕崎の東沖7kmの岩礁に鎮座していた神社で、鼻節神社の奥の院もまた、その地にあったといわれている。
東宮は松島湾の東側、西側は上記箇所に鎮座していたといわれ、恐らく…