29 May 2012

遠江國一之宮 小國神社 境内社と天竜浜名湖線

Location 日本, 静岡県周智郡森町一宮3956
小國神社
滝宮社・八王子社・飯王子社と美しい自然

宮川
小國神社の境内を流れる宮川。
川沿いには、もみじと桜の木々が植えられており、
春には見事な桜、そして秋には美しいもみじの紅葉が見れるらしい。

滝宮社
宮川の畔にひっそりと鎮座している滝宮社。
ちょっとした山道を登って祠へ進むと、
御祭神・須佐之男命が退治した八岐大蛇のように
根が八方にうねっている。

滝宮社
祭神 須佐之男命
古来より滝宮地内の守り神と仰がれ、
また病魔除け災難除けの神として崇敬される。
社殿より眼下には小さな滝がある。

御神木「大杉」の根株
慶長年間の古図に大杉と記されていた老杉だったが、
昭和四十七年の台風により倒木。

古より願掛け杉・福寿杉・虫封杉とも伝えられ、
洞穴に散銭して心願を祈願したという。

事待池
参道沿いにある神池は事待池と呼ばれており、
白濁とした池水がとても神秘的。

本社に詣で願掛けをして心願成就すれば
池に鯉を放つので「ことまち池」と言われ、 
池の水を汲み「いぼ」につけると「いぼ」がとれるというので
「いぼとり池」とも称されている。

池に架かる太鼓橋を越えたところに
覆屋で護られた祠がある。
現在は八王子社であるが、以前は並宮が坐していたという。
尚、手前には宗像社が祀られている。

八王子社
御祭神 国狭槌命・五男神三女神

国土の守護神であり災難除けの御神徳極めて高い。
例祭には奉射神事があり、
五穀豊穣・疫病鎮送を祈り二手半(五本)射る。

飯王子社
そして、大鳥居の前にひっそりと鎮座しているのは
飯王子社で、御祭神は保食神。
遠州横須賀地方の五穀豊穣守護の神で、
社殿は遠州横須賀地方を向けている。

遠江一宮駅

そして、小國神社から遠州一宮駅へ。

ローカル線で車両は一両編成。
(二両編成の場合もあります)

駅舎の前に立っているのは
マスコットキャラの大国主命くんと因幡の白兎さん??

長閑~なホーム。
乗客は私のみ・・・。

駅名は「とおとうみいちのみや」
リコーのロゴマークと『OA』という言葉に
郷愁を覚えてしまいます。

とても可愛らしい電車。
こういう電車に乗っていると、
心も不思議とスローな気持ちになります。




次回は、一気に飛んで、尾張国・名古屋に坐するお宮さまです♪

27 May 2012

遠江國一之宮 小國神社

Location 日本, 静岡県周智郡森町一宮3956
小國神社
(静岡県周智郡森町一宮3956-1鎮座)


掛川駅から天竜浜名湖鉄道に乗車し、遠江一宮駅で下車。
駅から休日のみ小國神社行の無料送迎バスが出ている。
電車とバス中心の参拝方法を取るボクにとって、この施しは実にありがたい。
(注意:送迎バスの有無等については、神社に直接問い合わせて確認してください)

大鳥居
神社駐車場でバスを降りて大鳥居に進んでみると、多くの参拝客で賑わっていた。
周辺にこれといった観光名所等がないにも関わらず、多くの人々が行き交っている様を見ていると、地元遠州の方々に愛されているお社なのかな?と感じた。

鳥居はクリーム色で笠木のみ黒色に塗られている。青空に映えて美しい。

本参道
小國神社は遠江國一之宮で、社地より北6キロ先にある標高511メートルの本宮峯(本宮山)を御神体山とした古社で、山頂には奥宮として奥磐戸神社がある。
祭神は大己貴命(大国主命)。
尚、「小國(おくに)」の語源は、神社より頂いた略記によると、神を祀るきれいな場所・神聖な場所というらしく、古来より許麻知神社(願い事を待つという意味)、事任神社(願い事のままに叶うという意味)とも称されてきたという。

神幸所
参道は鬱蒼とした森の中にあり、神幸所や全国一宮等合殿社をはじめとした摂末社・境内社が置かれている。
又、伊邪那美命・事解男命・速玉男命の熊野三神を祀る並宮は、現在本殿玉垣内に鎮座しており、どうやら参拝は自由だったらしい。残念。

全国一宮等合殿社

並宮の鎮座地についてだが、明治時代の社殿火災以前は本殿玉垣内に鎮座し、並座を以て並宮と称し、祭典日・社殿の結構・祭典の四季に至るまで本社に準じていたが、炎上後は境内社の八王子社に合祀されていたが、昭和四十三年に旧社地に復興造営されたという。

二の鳥居
長い参道を歩いていくと、二の鳥居、そして拝殿が姿を現してきた。


小國神社 (おくにじんじゃ)
御祭神 大己貴命
須佐之男命の御子にして、父神の命により豊葦原の国を開発し、稲穂の稔る瑞穂の国に造り上げ、天孫に国土を奉った大功を称えて「大国主命」、「国作之大神」、「大穴牟遅神(おおなむじのかみ)」と称える。
また、「大物主神」、「宇都志国玉神(うつくしにたまのかみ)」、「大国玉神」とも称する。
さらに国中の悪神を平定せられたことから「葦原醜男命(あしはらのしこおのみこと)」、「八千矛命(やちほこのみこと)」とも申し、尊貴を称えて「大己貴命(おおなむちのみこと)」と申す。

拝殿
(参拝客の往来が激しかったが、何とか撮影できた)
御由来
創祀は神代と伝えられ、上代の事で詳らかではないが、延宝八年(1680)の社記によれば、人皇第二十九代欽明天皇の御代十六年(555)二月十八日に本宮峯(本宮山)にご神霊が出現し鎮齎せられた。後、山麓約6kmの現在地に都より勅使が差遣わせられ、社殿を造営し、正一位の神階を授けられた。
爾来、年々奉幣に預かり、文武天皇大宝元年(701)二月十八日に勅使が奉幣し、特に十二段の舞楽を奉奏せられた。

手前の建築物は舞殿
仁明天皇承知元年(840)に従五位下神階を授けられ(続日本後記)、清和天皇貞観に年(860)には従四位下、同十六年には従四位上を加えられ(日本三大実録)、第六十代醍醐天皇の延喜七年(907)に勅して社殿を改造せしまられ、延喜式内社に列せられた。

下って第九十六代後醍醐天皇の元弘・建武の変以来、勅使参向が絶え、神主が代わってその式を行い、戦乱が相次ぐ室町時代に至っても神事祭礼を欠く事なく奉仕し、朝野の崇敬が極めて篤く、近世に至る。

ひょうの木
元亀三年(1572)徳川氏の目代・武藤刑部氏定が武田信玄に味方し甲斐の軍勢を招き当社にそむいた時、神主・小國豊前重勝は霊夢に感じ、子息千松麻呂を人質として徳川氏に訴えた。

家康公は神主に命じてご神霊を別所に遷し、願文と山上小鍛冶宗近作の太刀を奉り、戦勝を祈願した後に、社頭に火を放ち全部の社殿を焼失した。
その後、徳川方が勝を得て、天正三年(1575)家康公は家臣本多重次に命じて、先ず本社を造営、遷宮させ、次いで同十一年(1583)十二月七日天下平定の奉賽として末社・拝殿・回廊を造営、同十三年楼門を再建させた。

その後明治六年國幣小社に列せられたが、明治十五年三月八日再度の火災に遇い、本殿以下悉く失ってしまった。官命により再建の事となり、明治十九年に完成。
終戦後は昔ながらに遠江國一宮として崇敬され、現在に至っている。(社記・党側実紀)
(以上、神社略記より)

静岡県神社庁発行の
御神木指定証?
さて、「縁結びの御神木」とされているひょうの木。
毎年不思議にもこの木の葉に「まゆ型」の穴のある「から」ができ、風が吹くと『ヒョウ』という音を出すので、ひょうの木というらしい。
又、御祭神の大己貴命が「ひょうの笛」にて女神を呼び、その心のこもった調子に女神が感銘して契りを交わしたと伝えられ、「縁結びの木」とも云われている。

次回は小國神社摂末社と美しい境内についてです♪

25 May 2012

静岡浅間神社 大歳御祖神社と賤機山

Location 日本, 静岡県静岡市葵区片羽町8
静岡浅間神社 (2)
大歳御祖神社及び境内社

神部神社・浅間神社大拝殿
静岡浅間神社は神部神社・浅間神社、そして大歳御祖神社の三社を総称した社。
前回は神部神社・浅間神社を中心に記してきたが、今回はもうひとつの社・大歳御祖神社と境内社について綴っていきたい。

大歳御祖神社社殿
大歳御祖神社は、神部神社・浅間神社から離れた境内南側に鎮座している。
当神社には、天保年間建立の拝殿と楼門が存したが、太平洋戦争の空襲により焼失したため、鉄筋コンクリート造の拝殿と神門が再建されたらしい。
神部神社・浅間神社 は(ほぼ)東方向を向いているが、本神社は南側の方角に向いて坐している。

大歳御祖神社(奈吾屋大明神)
主祭神 大歳御祖命(倉稲魂神・大年神の母神、別名神大市比売命)
配祀 雷神
由緒
総国風土記によれば、第十五代応神天皇四年の鎮座と伝えられ、延喜式内社である。
もとは奈吾屋社とも称した。
往古の安倍の市(静岡・安倍川)の守護神であり、現在は諸産業繁栄の守護神として信仰される。
(参拝の栞より)

さて本神社は、三社以外に立派な社殿で祀られている境内社がある。
特に八千戈神社と少彦名神社は仏堂の佇まいを残しており、江戸時代の神仏習合の名残を見受けることができる。

まずは、社務所手前に鎮座している八千戈神社。
神部神社の御祭神・大己貴命の荒御魂神である八千戈命のほか、浅間神社末社九社を祀る。
太陽光が強すぎて、写真が白抜けしてしまっているのは御愛嬌(笑)

八千戈神社
八千戈神社
例祭日 十月十五日
本境内社は、明治以前は徳川家康公が合戦で常に奉持した念持仏を祀ったことから東照公ゆかりの摩利支天社と称された。
維新後、神仏分離に際し、金印木像は臨済寺に遷され、以後八千戈を御祭神とする。

昭和五年五月二十九日、昭和天皇御親拝の折には、神部浅間両社御修理中で当社を仮殿としていたので、この大前で御観拝あらせられた。
当社は東照公ゆかりの幕府崇敬の社で、社殿の造営も本社に次いで行われた。
現在では、武神として信仰され、一般に勝事の祈願所として広く信仰をあつめている。
(境内御由緒書より)

少彦名神社
少彦名神社
例祭日 一月八日
本社は少彦名命を主神とし、他に神部神社末社十四社の祭神を相殿とする。
もと神宮寺薬師堂を称し、薬師十二神を祀っていたが、維新後神仏分離に際し、臨済寺に遷され現在は少彦名命を御祭神とする。

社殿は入母屋造銅瓦葺 朱塗で細部に彩色を施し、特に欄間に飾られた立川流彫刻「十二支」は名作として著名である。
古来境内社として、病気平癒の信仰はすこぶる熱く、御例祭には市内薬業関係者の参列がある。
(境内御由緒より)

玉鉾神社
玉鉾神社
祭神 羽倉東磨大人命、岡部真淵大人命、本居宣長大人命、平田篤胤大人命
当社は国学の祖神たる四大人(うと)を奉斎し、明治九年岩月、静岡県内の住職が官許を得て創立した。 玉鉾の道の祖神を祀る意を以て玉鉾神社を称した。

麓山神社参道(百段)
静岡浅間神社の背後にある神奈備・賤機山(しづはたやま)。
境内から伸びる百段の参道を登った箇所に本神社の別宮で、『山宮』と称されている麓山神社が鎮座している。

麓山神社
麓山神社(はやまじんじゃ)
祭神 大山祇命 配祀 日本武尊
古来、賤機山上に鎮座し、本社の別宮で「山宮」と称せられた。
本社浅間神社の祭神・木之花咲耶姫命の御父神である大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀する。従来四本社の一つに列し独立の神社であったが、明治12年7月22日郷社に列し、境内社となった。
尚、当社は宮元八ヶ町の氏神でもある。

麓山神社 本殿
極彩色で彩られた本殿は、境内社とは思えない程勇壮且つ絢爛な佇まい。
日光の二荒山神社の元宮・瀧尾社を想起してしまう。
ちなみに、本殿の先にちょっとした山道があるが、単なる登山路ですのでご注意を。

賤機山古墳
そして、麓山神社の側には、賤機山古墳がある。
賤機山古墳(しづはたやま)は、六世紀頃の築造とされ、円墳で県下随一の家形石棺を有し、装身具・武具・祭祀遺品等が出土した。

広い境内、豪華な社殿群の美しさ、そして山歩きも楽しめ、更に古墳まであるという、古社好きには堪らない神社。当初の予定だと、別のお社へ参拝しようと計画していたが、立ち寄ってみてよかったと思える神社でした。

次回は遠江國一宮です♪

23 May 2012

静岡浅間神社 神部神社・淺間神社 日本一高い木造神社建築

Location 日本, 静岡県静岡市葵区宮ケ崎町102−1
静岡浅間神社 (1) 神部神社・浅間神社
(静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102-1鎮座)

静岡浅間神社(通称おせんげんさま)は、静岡市賤機山の麓に鎮座する社で、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社を総称している。
この三社は同じ境内にあり、さらに神部神社・浅間神社は同殿に鎮座している。

神部神社・浅間神社総門
神部神社は崇神天皇の御代の創建で、駿河開拓の祖神・駿河の国魂の大神として鎮座された。延喜式内社であり、平安時代より駿河国総社とされた。
また、倭文機神社・美和明神とも別称されており、倭文神との関連がある。
浅間神社は延喜元年(901年)に醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社から御分霊を勧請され、以来『冨士新宮』として崇敬されてきた。
大歳御祖神社は『奈吾屋大明神』と称され、第十五代応神天皇四年の鎮座と伝えられ、延喜式内社である。

神部神社・浅間神社楼門

静岡浅間神社の境内に入ると、社殿の壮麗さに驚かされるが、これは、徳川家康の出い立ちに由来していると思う。

徳川家康は幼少の頃、今川氏の人質として賤機山の北側にある臨済寺に預けられていて、14歳の元服の儀式は当神社で行ったという。
そして1582年(天正10年)、三河・遠江の戦国大名となっていた家康は、賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するにあたり、

『無事攻略できたならば必ず壮麗な社殿を再建する』

との誓いを立てた上で、当社の社殿を焼き払い、駿河領有後に現在の規模と同程度の社殿を建造した。
(ウィキペディアより引用)

以来、歴代徳川将軍の崇敬神社となり、社殿群は大造営されて篤く庇護されていったのである。

大拝殿
廻廊内に入ると、まず目に飛び込んでくるのが、極彩色で彩られた重層な大拝殿。
大拝殿は文化元年(1804)の大造営時に再建された社殿で、浅間造りの独特な建築様式。
高さは25メートルで、出雲大社本殿(高さ24メートル)よりも高く、日本一高い木造神社建築という。
貞享元年(1684)貝原益軒の記した『吾妻路之記』には、
「美麗なる大社なり。日本にて神社の美麗なる事、日光を第一とし、浅間を第二とすと云う」とあり、古くから『東海の日光』と称えられていた。

舞殿
静岡浅間神社

神部神社
祭神 大己貴命 (別名・大国主命)
配祀 瓊瓊杵命・栲幡千々姫命・東照宮
崇神天皇七年(紀元前90年)の鎮座と伝え、延喜式内社で倭文機神社・美和明神とも別称され、この地方最古の社。
制による国府がここに置かれ駿河国総社と仰がれた。
次の各社と共にそれぞれが縣社(明治六年)に列格され、國幣小社(明治廿四年)に昇格した。

淺間神社
祭神 木花開耶姫命 (天孫瓊瓊杵尊の御妃神)
配祀 瓊瓊杵命・栲幡千々姫命
醍醐天皇の勅願により延喜元年(901年)富士本宮浅間大社の分霊を勧請したと伝え、全国千三百余社の分祀のうち最大最古の社。富士山を神体山と仰ぎ富士新宮と称えられる安産子授けの神。
後世、仏説の影響で「センゲン」と音読する。

舞殿から大拝殿を眺める
大歳御祖神社
祭神 大歳御祖命 (倉稲魂神・大年神の母神 別名・神大市姫命)
配祀 雷神
応神天皇四年(273年)の鎮座と伝え、延喜式内社で奈吾屋社・大歳天神とも別称された。
上古からの「安倍乃市(現市街)」の守護神・地主神として崇められてきた。
社名は、大年神・倉稲魂神(稲荷大神)の母(御祖~みおや)神を表している。

本殿
左:淺間神社 右:神部神社
この三社は、静岡市街の北北西の方位、「静岡」の地名の由来となる賤機山(しづはたやま・賤ヶ丘)の最南端に、神部・淺間両社は東面して、大歳御祖神社は南面して祀られる。
古くから朝廷をはじめ、国司・武門・武将が崇敬し、徳川家はもとより、各時代に於いて北条氏(鎌倉幕府)・今川氏・武田氏が社殿の造営、社領の安堵等の赤誠を捧げた。
(以上、境内由緒書きより)

大拝殿の奥の高台には神部神社・浅間神社の本殿が鎮座している。
木々に隠れてよく見えなかった・・・。
因みに300円を納めれば、本殿特別参拝が可能だという。
狩野栄信画の「八方にらみの龍」などの天井画も拝観可能とのこと。
次回参拝の機会があれば、拝観してみようと思う。

左:ご神水の井戸 右:神厩舎
左の御神水の井戸は、総門をくぐった左側にある。
寛文十年(1670)の境内古図に記載されていることから、寛永年間の大造営時以前に存在していたとされている。その後空井戸として保存されていたが、平成三年に上屋を造営したという。
右の叶馬は、総門右手にあり、馬の彫刻は左勘五郎の作。
安永の火災の折、二頭の神馬(木の馬)は三保の明神(御穂神社)に逃げ、一頭はそのまま残り、もう一頭は戻ってきたという伝説がある。

広々とした境内に美しい社殿群。
原始的信仰が残るお社巡りだけでなく、本神社のような日本的(江戸的?)で壮麗な建築物をのんびり拝観していくのも悪くない。


次回は、大歳御祖神社と、これまた徳川幕府の栄華を想起させる境内社についてです♪

21 May 2012

駿河の社 焼津神社 日本武尊所縁の古社

Location 日本, 静岡県焼津市焼津2丁目7−2
焼津神社
(静岡県焼津市焼津2-7-2鎮座)

草薙神社に続いて、日本武尊所縁の地・焼津に鎮座する焼津神社で、かつては入江大明神と呼ばれていた式内社で、JR焼津駅から徒歩7~8分程の位置にある。

焼津という地名は、日本武尊の神話から由来する地名で、古事記では相武の焼遣、日本書紀では駿河国焼津と記されている。

主祭神は日本武尊で、東国征討に従軍した吉備武彦命・大伴武日連命・七束脛命を相殿に祀っている。

銅鳥居
焼津神社について説明する際、やはり記紀神話の引用は必要。
ということで、「おはなし」を要約してみました( ゚ω゚ )

景行天皇の息子であった日本武尊は、九州・熊襲を征討したあと、休む暇もなくヤマト朝廷の逆賊であった蝦夷征討の為、東国へ向かいました。

遠征の途中、伊勢神宮に立ち寄って詣でた際に、ヤマトタケルは別れのあいさつをするために斎王である倭姫命のもとへ行きました。

すると、倭姫命は・・・

倭姫命:
「これを持っていきなさい、草薙剣(天叢雲之剣)と袋です。
もし貴方の身に危険が生じたら、
この袋を取り出しなさいね。」

と云われて、草薙剣と小袋を渡されました。

神宮参拝後、ヤマトタケルは東進して朝廷に従わない者や悪しき神を次々と平定していきました。

境内にある日本武尊像

尾張国を経て相武(駿河)国に至ると、ある国造がやって来てヤマトタケルにこう言いました。

国造:「ヤマトタケル様、
この野の中に住んでいる神さまは、
とても荒ぶる神なのですよ・・・」

ヤマトタケルは、言葉を信じて野原に入ると、なんと国造は、その野に火を放ってしまいました。

国造:「ヒヒヒヒっ!
わしの罠にまんまとひっかかったな!
火よ、どんどん燃えてヤツを焼き殺せ!!」

大火が我が身に迫ってきたヤマトタケルは、辺りの草を剣で薙ぐように刈って、袋の中に入っていた火打石を取り出し、

ヤマトタケル:
「向火よ、攻めてくる火を弱めてくれ!」

と向火をたてて、火の勢いを弱めることに成功し、その国造連中を征討したのでした。

おしまい

拝殿
「おはなし」にて、向火をたてた火打石が焼津神社の御神体といわれ、「火石」「水石」と呼ばれているらしい。また、日本武尊が水石と火石を投げたところ、一つが当社、もう一つが熱田神宮に落ちたという伝承話もある。

本殿
焼津神社
祭神
本殿 日本武尊
相殿 吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命

由緒
当社は記紀記載の如く、第十二代景行天皇四十年七月、日本武尊が弟橘姫を伴い吉備武彦、大伴武日連の武将を従え、七束脛を膳夫として東夷征討の砌、此の地で野火の難に逢われた際、天叢雲の剣で草を薙ぎ、向火を放って、悉く賊徒を討滅されたという御事蹟を伝える御社で、延喜式神明帳登載の駿河国益津郡焼津神社は、即ち当社である。

焼津御霊神社
駿河国諸郡神階帳によれば、神階正四位下に叙され、入江大明神とも讃えられて緒民衆から崇敬されて来た。

創建は、駿河国風土記によれば、反正天皇四年己酉(409年)と云われ、今川氏の代になって社領五百石の寄進を受け、徳川氏に至り、家康は社殿を造営し、又代々七十石の朱印高が附せられている。
明治天皇御東幸の際は、官幣使差出の先触状があったが、官道より遠隔のため沙汰止みとなった。明治六年郷社、明治十六年県社に昇格、昭和四十一年別表神社に加列した。
(焼津神社略記より)

御神木
社殿脇の御神木は、焔のような根の張り出しが特徴的。
火に由来する社だけある、と様々なWEBに書いてあるが、ボクも同様の事を想った。

裏参道の石鳥居
焼津神社の境内は市街地にもかかわらず、とても広々として開放的な雰囲気。
玉砂利が敷き詰められて、境内社を含めて整備がとても行き届いており、いかにも地元に愛されて続けている古社の佇まいを残しているように感じました。


次回は静岡市内に鎮座する徳川氏栄華の匂い漂う古社です♪