21 July 2012

東京湾の社 「八幡の藪知らず」 不知八幡森

Location 日本, 〒272-0021 千葉県市川市八幡2丁目 千葉街道
不知森神社
(千葉県市川市八幡2-8-13鎮座)

『東京湾の古社』シリーズの最後は、『八幡の藪知らず』で知られる不知森神社。
JR本八幡駅のすぐそば、国道14号線沿いの繁華街の一角が鬱蒼とした竹藪で覆われている。
由緒や歴史については以下の案内板に記載されているが、都心に程近い地で、このような伝承が守り継がれていることが実に興味深い。


不知八幡森(通称八幡の藪知らず)

江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くが、八幡では「藪知らず」のことを載せています。
そして一様に、この藪知らずは禁足地、一度入ったら出て来られない所、入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され、「諸国に聞こえて名高き所なり」と言われて全国的に知られていました。

入っていけない理由については、
・最初に八幡宮を勧請した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・貴人の古墳跡である。
・平将門平定のおり、平貞盛が八門遁甲の陣を敷き、死門の一角を残したので、この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣六人が、この地で泥人形になった。

・・・と、色々言われてきました。

中でも万治年間(1658~1661)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後に錦絵となって広まりました。
ちなみに「万治」といえば、諏訪にある万治の石仏
ヘンテコな時代だったのですねー。


「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、色々とと取沙汰されてきたものではないでしょうか。
また、理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったではないかとも考えられます。



古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を「放生池」と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。


市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には『入ってはならぬ』ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。

不知八幡森の碑は安政四年(1857)春、江戸の伊勢谷宇兵衛が建てたものです。
(以上、案内板より)

以上で、東京湾の古社シリーズは一旦終了です♪



19 July 2012

東京湾の社 「海神駅」の社 式内元宮入日神社と龍神社

Location 日本, 千葉県船橋市海神3丁目7−8

京成電鉄に『海神』という名の駅がある。
インパクトの強い駅名に惹かれてしまい、途中下車して駅周辺を散策してみた。

千葉街道を数分程東へ行き、さらに入り組んだ路地を進むと、式内元宮入日神社という名の小さなお社が鎮座していた。

式内元宮入日神社

左:東向きの鳥居 右:石標

本神社は、前回紹介した船橋大神宮・意富比神社の元宮とされており、鳥居は意富比神社の方位を向いており、さらに千葉街道の旧道と思われる道を進めば意富比神社のある「大神宮下」交差点にあたる。
鎮座地は日本武尊の東征時に上総国から下総国へ移動する際に上陸された地といわれている。

また、江戸名所図会には、意冨日神社旧地として本神社の図解が書かれてあり、
『船橋駅舎の入り口、海神村御代川氏某が地にあり。日本武尊この海上にして八咫鏡を得たまひ、伊勢太神宮の御正体として鎮座ありし旧跡なりといふ。』
と記されている。

境内
(参拝時、夏祭りの準備中でした)
入日神社
祭神:日本武尊、天照大神
由来
当町鎮守「式内元宮入日神社」は皇統第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が東夷御征討の砌り、伊勢湾方面より海路を利用し先ず上総の国に上陸、次いで軍団は上総の国を出帆せられ下総の国に入るに及んでこの地に上陸された。
上陸地点は現在地に当ると伝えられている。

本殿

その後村人によって日本武尊の上陸を祈念し且つその御偉徳を偲び合わせて郷土守護、五穀豊穣、豊漁の神として社を建立し崇拝してきたのが即ち入日神社である。
祭神は天照大神と日本武尊を祀り、古くから船橋大神宮・意富比神社の元宮と言い伝えられている。
(境内案内板より)


続いては、少し西に向かって海神六丁目会館という施設の敷地内に鎮座している龍神社へ。

龍神社

鳥居
龍神社は、大綿津見命が現在の祭神だが、阿須波の神が祭神ともいわれている。
阿須波の神といえば、河内国一宮坐摩神社の祭神「坐摩神」五座の一神。
Wikiによれば、阿須波神は竃神(かまどがみ)で足下・足場の神とされている。

社殿
神社は南側に向いているが、鳥居は入日神社と同様東向き。

左:本殿 右:本殿の見事な木彫刻

龍神社
竜神社は、西海神の鎮守で大綿津見命を祀る。
仏名を婆竭羅竜王という。
阿須波の神ともいわれ、明治以前まで大覚院が別当をしていたと伝えられ、同寺の山号を龍王山と称する。

左:扁額 右:古峰山神社の石祠

万葉集巻二十に

庭中の阿須波の神に小紫さし
我は斎はむ帰り来までに

の歌が伝えられている。

境内にある池
(よく見ると龍の顔がある)
境内にある小さな池には弘法大師の石芋や片葉の蓋の伝説が残されている。
(境内石碑より)


海神駅ホーム
両神社ともかつては海岸線沿いに鎮座していたお社だが、現在は2キロ以上南に下らないと海を拝むことはできない。

何気に奥が深い(!?)総国の旅~最終回は、
大昔より語り継がれている本八幡のミステリースポットです♪

17 July 2012

東京湾の社 下総の古社 菊田神社

Location Japan, Chiba Prefecture Narashino津田沼3丁目2−18
菊田神社(久久田大明神)
(千葉県習志野市津田沼3-2鎮座)

鳥居なき社前
菊田神社は京成津田沼駅から徒歩5分程の位置に鎮座しているお社で、弘仁年間(810年頃)の創建より「久久田大明神」と称していた。
鎮座地である『津田沼』の地名は、谷・久々(菊田)・鷺の字名を繋ぎ合わせて作られたらしい。(ちなみに現在、谷津と鷺沼の地名は残っているが、久久田は津田沼に変更されている。)

上の写真は、東日本大震災後に撮影したもの。
社前には大鳥居があったが、震災により倒壊してしまった。
御由緒に書かれている通り、鎮座地周辺がかつて東京湾に面した入江(久久田浦)だったこともあり、地盤が軟弱だったせいであろう。
『古人の話を大切にせよ』という言葉が胸に沁みる。

境内
(石燈籠等が倒壊していた)
さて、菊田神社は前号紹介した船橋市三山に鎮座する二宮神社と深い関係にある。
菊田神社の社伝によると、『治承四年、藤原師隆、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、久久田大明神に着船上陸し、後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座地)に移住した』とあり、二宮神社の社伝にも、『治承四年(1180)、藤原師経当国へ左遷の際、同人及び神官と協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す』と書かれている。

この話を裏付けするかのように、二宮神社の年間行事『お舟流し』では、御手洗池の細流に藤原師経等の乗舟に例えた『すすきの舟』を神社の小川に浮かべて流している。
さらに、二宮神社の参道に流れている小川の水脈は、習志野市の津田沼に鎮座している菊田神社境内の池(現:菊田水鳥公園)へつながっているとも言われている。

拝殿
菊田神社
大己貴命(大国主命)・藤原時平命

由緒
古伝によれば、当神社は久久田大明神と称して、弘仁年間(810年頃)より御社として祭祀されていました。当時は、この境内地は小嶋であって、この嶋を中心として東西両側は丘で、砂土堆積している入江でありました。住民の多くは西側の丘に住居を構えて生活をしていました。
(注:「島」は海上に突き出た山で、「嶋」は、山あいの水辺に人が集まった村や集落のこと)

住民は嶋の上に鎮座されていた御社、即ち久久田大明神を産土神および氏神として奉斎信仰していました。なお、旧九月十九日を例祭の日と定めて、年毎に祭事を執行していました。

本殿
治承四年、藤原師隆、藤原師長卿の一族郎党当国に左遷の砌り、相模国より船に乗船し相模灘を経て袖ヶ浦にと来ましたところ、海上少し荒れていた為に何処か波静かな所はないかと探し求めていましたところが、たまたま久久田浦の入江と嶋を発見しましたので、一同はここに船を漕ぎ来りてこの嶋に着船上陸しますと、住民達が崇敬しているお宮がありました。

即ち久久田大明神のお宮で、師経卿、師長卿は無事に此処まで安着の出来たことはこの祭神の御神徳によるものであるとして深く感銘されて、この御社を崇め奉りてこの地を安住の地と定めることとし、同時に祖先の人皇六十代醍醐天皇の御宇延喜左大臣藤原時平命を合せ祀り住民と共に奉斎崇敬しました。後に師経の一族は三山の郷(現在の二宮神社の鎮座地)に移住したと伝えられています。

その後里移り年変りて入江も浅瀬となり、この嶋の土と東西の丘の土を採取し浅瀬に盛土して水田を拡げて氏神の社名に相応しく永く久しく栄える国として耕作するようになりました。
また、この境内地が船の形をしているのは、師経一族郎党が着船したのを祈念するために浅瀬を盛土するときにこの形を造ったと伝えられています。

御嶽大神
御社号改名
宝暦年間(1741~1762)桃園天皇の御代に社名を菊田大明神と改名(古老の云伝によれば、菊は我が国の名花、菊文字は久久の文字よりも御社名には相応しいとの所似によって改名された)
御社殿
康元年間(1256)に木造に改造営、宝暦三年九月拝殿を造営、明治・昭和に本殿、拝殿改修。

合祀
大正元年十一月、区内各町(本郷、丸田、下宿、浜宿)に鎮座されていた八坂神社、金比羅神社、大山祇神社、水神社、稲荷社、雷神社の御祭神を合祀。
(以上、境内案内板より)

左:大杉神社 右:琴平神社

左の大杉神社は、あんば様といわれ、江戸~明治期に流行した天然痘(ほうそう)流行を防ぐために祈願した民間信仰で、本神社では毎年3月15日にお祭りが開催されているとのこと。
尚、茨城県稲敷郡鎮座の大杉神社から勧請したといわれている。
右の琴平神社は、参道脇に鎮座していたが、震災により石祠が悉く倒壊していた。

次回は、船橋市内に坐する『大神宮』についてです♪

15 July 2012

東京湾の社 意富比神社 (船橋大神宮)

Location Japan, Chiba Prefecture Funabashi宮本5丁目2−1
意富比神社(船橋大神宮)
(千葉県船橋市宮本5丁目2-1鎮座)

意富比神社は、延喜式神名帳で『下總國葛餝郡 意富比神社』と記載されている古社。
京成線大神宮下駅から徒歩6分程度の地に鎮座している。
神社の西側には海老川が流れていて、古代は太白川(おおいかわ)と呼ばれていたことや、神社名から意富氏(飽富神社・多神社)との関連が想像できる。

一の鳥居
本神社についてウィキペディアで調べてみると、意富比神社が船橋大神宮と呼称されていった理由として、以下の内容が記載されている。(他のHPにも同様の記述あり)
鎮座地一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。
その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。
参道
交通量の多い鳥居前の道路から参道に向かうと、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
想像以上に木々も多くて、とても心地が良かった。

二の鳥居
意富比神社 (船橋大神宮)
祭神
天照大神
万幡豊秋津姫命、天手力雄命
式内社・旧縣社

境内
由緒
景行天皇四十年、皇子日本武尊が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天(ひでり)に苦しんでいた住民のために天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが当宮の創始であります。
同五十三年、天皇ご自身が御東行、武尊の御功績を御追憾なされ、「意富比神社」の称号を賜りました。
平安時代、延長五年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。

後冷泉天皇の御世、天喜年間(1053~1058)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇の御世、仁平年間(1151~1154)には船橋六郷の地に御寄附の院宣を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
鎌倉時代、日蓮聖人は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納されました。

神門・拝殿
江戸開府の頃、徳川家康公は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通じて五十石が幕府から献納され幕末に至りました。
近代に入り、明治天皇陛下には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠遊ばされました。
往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えますが明治維新の戦火のため焼失しました。
その後、明治六年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正十二年(1933)以降本殿・拝殿・鳥居・玉垣・参道等に至るまで随時造営が成され、今日に至っております。
(船橋大神宮参拝のしおりより)

左:外宮 (豊受神社) 右:天之御桂宮

拝殿西側には、伊勢神宮を模倣しているのか、外宮(豊受神社)があった。
外宮や天之御桂宮の手前には神楽殿、そして土俵がある。
本神社の例祭に行われる奉納相撲は歴史が古く、天正十八年に行われた徳川家康の上覧相撲に起源を持つという。

裏参道
西から伸びる裏参道。
鳥居の先には、本神社の元宮といわれている式内元宮入日神社へと続く。

左:船玉神社 右:大鳥神社

東参道の鳥居前には船の形を模した船玉神社があり、他にも多くの末社が座していた。
右の大鳥神社は奥社手前に鎮座しており、祭神は日本武尊。
「船橋のお酉様」と、近在の人々に親しまれているらしい。

浅間山灯明台
そして境内の高台にはハイカラな建築様式の灯台が保存されている。
かつての富士塚を利用して作られたのであろう。

浅間山灯明台
かつて、船橋沿岸を航行する船は、意富比神社の境内にあった常夜灯を目印にしていました。
この常夜灯は慶應四年(1868)の戊辰戦争で社殿とともに焼失しました。
明治十三年に現在の灯明台が再建され、明治二十八年に停止するまでの間、政府公認の私設灯台として利用されました。
標高27mの丘の上にある浅間神社のあった場所に建てられたので「浅間山灯明台」といいました。
建築様式は和洋折衷の「擬洋式建築」で、1・2階は和風は和風、3階の灯室は西洋風の六角形のつくりになっています。
(境内案内板より)


次回は「海神」という名の地をブラブラ歩いてみました♪の巻です。

12 July 2012

東京湾の社 下総の古社 二宮神社

Location Japan, Chiba Prefecture Funabashi三山5丁目20−1
二宮神社
(千葉県船橋市三山五丁目20-1鎮座)

二宮神社は船橋に鎮座する神社で、JR総武線津田沼駅からバスで15分程度走った場所に鎮座しており、習志野駐屯地の近くにある。
当社は、延喜式内社『千葉郡 寒川神社』と比定されており、古くより近隣二十三村(現在の船橋東部。千葉市西部・習志野市・八千代市)の総鎮守とされ、近隣の崇敬が篤いお社である。

一の鳥居
社前の雰囲気。
一本道の参道、そして鬱蒼と茂る森がとても印象的。
尚、鳥居の脇には大きな石が坐していた。
本神社は弘仁年間(810~824)に嵯峨天皇の勅命により創建されたといい、以降「寒川神社二宮大明神」と称されてきたという。

左:二宮神社参道 右:お舟流しのすすき舟

参道を進むと谷になっており、一旦下って小川を渡り、再度登らなくてはならない珍しい構造。
この小川は毎年7月15日に開催される「お舟流し」という行事で使用されている。

お舟流し
御手洗池の細流にすすきの舟を浮かべて流す行事です。当社に合祀されている藤原時平の子孫、師経等の乗舟は暮の11月13日にこの地に到着し、その一部の人々は翌年の7月15日にこの地から帰ったといわれており、それがお舟流しの行事となりました。

尚、谷底の小川の水脈は習志野市の津田沼に鎮座している菊田神社境内(次回紹介)にある池へとつながっていると言われているという。

小川を渡り参道を進むと、登り坂。
鳥居の先に見える社殿の面持ちがとても美しい。
御祭神は建速須佐之男命を主祭神とし、櫛稲田比売命、大國主命といった出雲神に併せて藤原時平命を祀っている。
また、明治時代に近隣の若宮八幡神社(大雀命)、及び当社の摂社だった阿波八幡大神(誉田別尊)を御本社へ合祀した。

拝殿
二宮神社
御祭神
建速須佐之男命、櫛稲田比売命、大國主命、藤原時平命、
大雀命、誉田別命

本殿
由緒
当社の儀は弘仁年間(西暦810年代)、嵯峨天皇の勅創に係り古来寒川神社二宮大明神と総称す。往昔より近郷二十三村の総鎮守にして、丑未七年目毎に二宮神社外八神社の神輿を会し大祭を執行す。
治承四年(1180)、藤原師経当国へ左遷の際、同人及び神官と協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す。

扁額と神紋
慶長年中、東照宮上総国東金へ御成りの砌り、御参詣の際に御墨印を寄せられ、二代将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総國千葉郡三上村に於いて御神領十石御奉献、その後貞享元年神官宅火災の砌り御朱印焼失したが、翌二年六月十四日五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領の寄附あり。
(現在の御社殿は安永年間再造営せるものなり)

明治四十三年十二月十六日、千葉郡二宮村の無格社若宮八幡神社(大雀命)、摂社阿波八幡大神(誉田別尊)を御本社へ合祀す。
(参拝の栞より)

二の鳥居と御神木
二の鳥居の脇にある巨木は、御神木の大イチョウ。
樹高24.5メートル、幹回り4.5メートル。
冒頭で、『近隣二十三村(現在の船橋東部。千葉市西部・習志野市・八千代市)の総鎮守』と記したが、本神社を中心に『下総三山の七年祭り』と呼ばれる大規模な御祭が開催されている。

御神木の樹勢溢れる根と拝殿

下総三山の七年祭り
船橋市・千葉市・習志野市・八千代市の九つの神社が集まる下総地方を代表する寄合祭。
6年毎の丑年と未年に行われ、数え年で7年になることから、『七年祭り』と呼ばれている。
起源には室町時代の千葉一族、馬加康胤に纏わる安産祈願と安産御礼の故事に由来する説が有力とされている。
大祭では全ての神社の神輿が勢ぞろいし、七曲りと呼ばれる道を通って二宮神社に向かい、昇殿して参拝する。
各神社の中には、菊田神社(習志野市津田沼)といった社も参加する大規模なもの。
(境内案内板より要約)

境内から出た先にあった祠。
脇には風化して読めなくなった石碑があり、お供え物がされていて祠同様に丁重に扱われていた。

社殿
重厚な造りの社殿は、現在の社殿は安永年間(1772年〜81年)に再建されたもの。
広々として手入れの行き届いた境内はとても心地良く、地元に愛されてきた古社であることを感じることができた。

次回は、同じ津田沼に鎮座する二宮神社と関係深いお社についてです♪

10 July 2012

東京湾の社 下総の古社 寒川神社

Location Japan, Chiba Prefecture Chiba Chuo Ward寒川町1丁目123
千葉寒川神社
(千葉市中央区寒川町1丁目123番地鎮座)


寒川神社はJR外房線本千葉駅から徒歩8分程の地に鎮座する神社で、延喜式『千葉郡 寒川神社』の論社とされている。

寒川神社 社前
御祭神は寒川比古神・寒川比売神を主祭神とし、相殿として天照大御神を祀っている。
寒川比古神・寒川比売神は、相模国一宮・寒川神社と同じ祭神で、治水の神や方位の神として信仰されている。
浅瀬が広がっていた古代~上古千葉の開拓神、そして、当地で盛んだった漁業や海運の安全を祈願した方位神の側面があったのであろう。


また、江戸時代の歴史学者伴信友著『神名帳考証』にて、「寒川村は天正年間までは結城と称せし所にて、千葉郡寒川村の属邑寒川新田というところに古社あり。今は神明と称すれども式内寒川神社なり。」と記されていることから、寒川神社の社地に天照大御神を祀る神明社が建立されたのであろう。
しかし、現在の通説では船橋市に鎮座する二宮神社が「式内社 寒川神社」と比定されている。


神社境内
神社境内は、正面に寒川二神を祀る正殿と、その左脇に天照大御神を祀る相殿の二殿から成る。ちなみに境内にある摂末社は、大雨のために確認できず・・・。

正殿

寒川神社
御祭神
主神 寒川比古神・寒川比売神
相殿 天照大御神


相殿

由来
寒川神社の御祭神は寒川比古神・寒川比売神、相殿に天照大御神の三柱の神々が祀られています。明治までは、神明社、伊勢明神と呼ばれていた。
天正十九年(1591)十一月徳川家康が社領として十石を寄進している。

獅子頭一体を御神体として、奥殿に祀っている。この獅子頭は桐材を使用しており、漆塗で刻法は力強い。内側に朱墨銘があり、様式は法隆寺に伝わる獅子頭に類似しているものがあり、制作年代を鎌倉期とする説がある。
獅子頭の銘文をみると「社殿及び獅子面大破に及びければ、文明十三年(1481)九月二十日再建す」とある。
弘化二年(1485)十月二十日夜、火災のため社殿、末社に至るまで悉く焼失、僅かに神鏡、神幣、獅子頭の三品は焼失を免れた。


日本の夏の風物詩
ゲリラ豪雨

姉ヶ崎の島穴神社参拝時に遭ったゲリラ豪雨以後、晴天が続いていたのだが、本神社に到着したと同時に再びゲリラ豪雨に遭遇><
本千葉駅に到着したとき、けたたましい稲妻が天から降りてきたので、「きっと来るだろうな」と思っていたが。

次回はもうひとつの「寒川神社」
船橋に鎮座する二宮神社です♪