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関東の古社 伊香保神社(上野国)

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伊香保神社
(群馬県渋川市伊香保町伊香保1鎮座)

上州屈指の名湯のひとつ、伊香保温泉。
この地にはかつて明神大社に列せられ、上野国三宮になった伊香保神社があります。
(ちなみに上野国一宮は、一之宮貫前神社、二宮は二宮赤城神社です)

本神社はかつては山岳信仰の社で「いかつほの神」(榛名山)を祀ったお社。
有名な石段街を登った頂上に鎮座しております。

御祭神は大己貴命と少彦名命。
創建は、社伝によると、第11代垂仁天皇朝時代(紀元前29~70)の開起。
略記には『字香東』、延喜式では『伊加保』、上野国神名帳では『伊賀保』とあり、現在の伊香保は恐らくこれらの当て字なのでしょう。

伊香保神社略記
所在地
字香東 現、群馬県渋川市伊香保町伊香保1
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
例大祭
9月19日。第五十四代仁明天皇の承和二年(西暦835年)九月十九日大社の社号を授けられたことに由来している。
本殿 拝殿
伊香保温泉街365段の最上段に鎮座し、南に榛名山を配し、北東には、越後連山が眺望される位置にあり、明治十一年(1877年)春、伊香保大火により、焼失後仮宮として建立、現在に至る。

由緒 沿革
第十一代垂仁天皇朝時代(紀元前29~70)の開起と伝えられ、第五十四代仁明天皇朝(833~850)承和2年(835年)9月19日名神大社に15階の位階については、承和6年(839年)6月従5位に列す。累進して第五十七代陽成天皇朝(876~884)元慶四年(880)従4位を授けられる。第九十一代後宇多天皇朝(1274~1287)建治元年(1275)正一位に列す。

第六十代醍醐天皇(897~930)の延喜五年に編纂が始められた法律執行細則集の中の神名帳に、伊香保神社も記載され、朝廷公認の神社となった。平安時代のこの延喜式神名帳には、全国2861の神社が登場、これらは、全て歴史のある神社で式内社と呼ばれた。なお延喜式神名帳は、延長五年(927)に完成した。

その後、鎌倉時代初期、各国ごとに一位の神社を定め、大和国ー大神神社、信濃国ー諏訪大社などのように「一宮制」ができたが、これに準ずる二宮、三宮・・・を定める国もあった。上野国は、十二宮を定め伊香保神社は、一宮貫前神社、二宮赤城神社、についで、三宮の…

関東の古社 大国神社(上野国)

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大国神社
(群馬県伊勢崎市境下渕名2827鎮座)

大国神社は上毛街道(国道17号線)沿いにある社で、旧境町に鎮座している。
祭神は大国主命で、配祀神として、丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命を祀っている。

創始は垂仁天皇九年で、天皇の勅命により奉幣使として当地に着いた百済車臨によって建立されたという。
その後、丹後国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀したので、当社を「五護宮」又は「五后宮」、「第五姫大明神」とも称されていたという。

渡来人が拓いた地域に建立されたと思われる社。
しかし、何故、丹波道主王命の子(渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命)がこの地で配祀されているのであろう?

上野国式内十二社大国神社縁起
境町大字下渕名字明神縁起

祭神 大国主命
配祀神 丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命
外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞鳴命、事代主命、旧八坂神社祭神

延喜式神名帳に上野国大国神社あり。上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。

縁記に曰く人皇第十一代垂仁天皇の九年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず、天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ、東国には百済車臨遣はされて、車臨この地に来り老松の樹下に宿る。之れ即ち御手洗の亀甲松であった。
偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふた叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。
汝は誰だと車臨容を正して「吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である。願くは国家の為に大難を救助し給へ」と翁唯々と答ふ。

言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
因って此の郷を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。

仝年十五年丙午の年九月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した。
此時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内 大須賀左内 生形権真人 石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当…

関東巨石の社 産泰神社(上野国)と巨大な磐座群

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産泰神社
(群馬県前橋市下大屋町569鎮座)
産泰神社は上野国(群馬県)を代表する独立峰である赤城山を水源とする荒砥川の支流、神沢川沿いに鎮座しており、二宮赤城神社の真北に位置している。
ちなみに、境内の西100メートル先には伊勢山古墳があり、附近はかつての居住地だったと推測できる。

小高い丘の頂に鎮座しており、周囲は緑深い社叢に覆われている。

神門は天保四年に建立されたもの。
門の先には壮麗な拝殿が顔を覗かせている。

神門の先には、とても壮麗な社殿が坐している。
玉砂利がきれいに掃かれていて、実に心地良い神的空間である。

本神社の御祭神は大山祇命の娘である木花佐久夜毘売命。
記紀神話での火中説話から『安産の神』として崇められており、社名にもその所縁が現れている。
江戸時代以降、安産祈願のため、穴の開いたヒシャク(ヌケビシャク)を奉納するのが慣例となっている。

また、建立は社伝によれば履中元年とされているが定かでない。

産泰神社
この神社の創建は、社伝によれば履中元年とされているが定かでない。しかし、社殿は以後に壘々としている巨石群から、神社信仰の初現形態の一つである巨石崇拝にその起源があるとみられ、歴史の古さがしのばれる。
安産を祈る者が、軽くヌケル(生まれる)ようにと底を抜いたヒシャクを奉納するようになったのは、江戸時代以降のことで、前橋、伊勢崎などをはじ県下一円の人々から、安産の神として篤い信仰を受けた。特に、前橋藩主酒井我雅楽頭は、社殿の造営をするなどその信仰著しいものがあった。

酒井氏の造営になた社殿は、多くの彫刻で飾られ、内部格天井には、酒井抱一が描いたとされる極彩色の花鳥図もある。数ある社宝のうち八稜鏡は、平安時代のもので、前橋市の重要文化財に指定されている。
また、四月十八日例祭の際に奉納される太々神楽も前橋市の重要無形文化財に指定されている。
(境内案内板より)

本殿は宝暦十三年(1764年)に建立されたもので、拝殿、幣殿とともに県重要文化財に指定されている。
周囲の(いささか)辺鄙な環境の中に、このような壮麗な社殿が鎮座していることに驚き。
きっと、上野国周辺の民に篤い尊崇されていたのであろう。

拝殿脇にある神楽殿で、明和元年(1764年)の建立とされている。

左:金刀毘羅宮  右:末社群
境内奥には大物主命を祭神とする金刀毘羅宮、その脇には末…

関東巨石の社 七ッ石雷電神社の磐座(上野国)

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七ッ石雷電神社
(群馬県前橋市西大室町448附近鎮座)

赤城山南麓には産泰神社内の磐座をはじめとして、 磐座等を祀った数多くの祭祀遺跡があったとされ、 近隣の西大室丸山遺跡の祭祀場跡からは 土器や剣、そして勾玉等の石製模造品などが数多く発掘されている。
ここ七ツ石雷電神社もまた、 巨大な磐座を御神体して崇める原始信仰の名残が残る社です。
鳥居をくぐって小高い丘に通じる一本の道を進む。 参拝、というよりショートトレッキング的な気分。
しばらく進むと朽ち始めている覆屋のような建物が。
覆屋の奥には巨岩と、その上に小さな石祠が祀られていた。
本神社の御祭神や由緒等は一切不明。 しかし、神秘的な形状をした磐座を眺めていると、 赤城山信仰に関係あったのでは?と思いたくなる。
磐座より「参道」を望む。
次回は、磐座群で有名な産泰神社です。

関東の古社 二宮赤城神社(上野国)

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二宮赤城神社
(群馬県前橋市二之宮町886鎮座)

常総地域に続いて少々上野国(群馬県)周辺のお社について。
群馬県で最もシンボリックな山といえば、広い裾野を持つ雄大な独立峰である赤城山に相違ない。

その赤城の神を祀った二宮赤城神社は明神大社(論社)に比定されている古社で、創建時期は不詳。ただし、社伝では人皇十一代、垂仁天皇の御宇に創建されたと伝えられている。

鳥居をくぐって参道に入る。
苔が生した石畳が何とも趣を感じます。

左:鳥居脇の燈籠 右:参道脇の道祖神
赤城山の麓に位置する本神社の周辺には荒砥川や粕川といった赤城山を水源とした河川が流れ、二子山古墳をはじめとした遺跡が数多く点在していること、豊城入彦命を祖とする上毛野氏の本拠地であったことから、『赤城山の神さま』を畏れ祀った赤城信仰の中心地だったのであろう。

参道の先には朱色の神橋が架かっている。
そして橋を渡って随神門をくぐった先には境内が。

さて、本神社が「上野国二宮」となった由縁は、由緒書きによると、当時一之宮であった赤城大明神(赤城神社)が、絹織が上手で財の君であるこの女神を他国へ渡してはならないと、女神(一之宮貫前神社)に一之宮を譲ったという話がある。
そのことから、貫前神社は帰化人の神で、本神社(赤城神社)は古来より続く民衆に崇敬されていた土着信仰の社であったとのこと。

随神門の先には広々とした境内に立派な社殿がデンと構えている。

由緒
創立年代は不詳。社伝では人皇十一代、垂仁天皇の御宇に創建されたと伝えられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。

赤城神社に関する文献の初見は「続日本後記」承和六年(839)で上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三大実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けが行われはじめましたが、当社は上野国の二宮として現在に至っています。

又、次のような説話もあります。
あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したおで思案の末、…