紀州熊野を巡る 花窟神社 イザナミが葬られた巨巌の墓所

花の窟神社
(三重県熊野市有馬町上地130鎮座)

鳥居
花窟神社は、熊野灘の七里御浜へ張り出すように聳え立つ大岩塊を御神体とするお社で、『日本書紀』にて国造りの神・イザナミの亡骸が葬られた墓所として知られている。
(尚、『古事記』によれば、「出雲國と伯伎國の堺の比婆の山に葬りき」とある。)
御祭神は伊奘冉尊と軻遇突智神。
神社となったのは明治時代以降とのことで、それ以前は墓所(祭祀場)であり、霊所という位置づけだったのであろう。

参道
日本書紀神代の巻一書に以下のような記述がある。

「伊奘冉尊、火神を生むときに灼かれて神退さりましぬ、故、紀伊国の熊野の有馬邑に葬りまつる。土俗(くにびと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る、又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る。」

現代語訳:伊奘冉尊が火の神を産むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。
それで、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神を御祭りするには、花のときに花をもって御祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする。)

このお祭りはお綱掛け神事として現代でも執り行われており、「花窟(はなのいわや)」の由来ともなっている。
さらに、「花の窟」は熊野三山の根源ともされており、熊野三山の中心である本宮大社は、主神が伊奘冉尊の子の家津御子神であるため、今も花を飾って祭が始まるという。

国史跡 熊野参道伊勢路
花の窟
この花の窟には社殿はなく、高さ45メートルの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古から遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。
祭神は伊奘冉尊、軻遇突智神である。

毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お網かけ神事」が行われる。
お網かけは、わら縄で編んだ110尋(約180メートル)の大網に季節の花、扇を括り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。

日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神を生むときに、灼かれて神退さりましぬ、故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗(くにびと)、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を以て祭る、又鼓吹幡旗を用いて、歌ひ舞ひて祭る。」と記されている。

「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。
その紀行文「庵主(いほぬし)」には

花の窟のもとまで着きぬ。見れば、やがて岩屋の山なる中をうがきて経を込め奉りたるなりけり。
これは弥勒菩薩の出給はん世に、とり出たてまつらんとする経なり。天人つねに下りて供養し奉るといふ。
げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。卒塔婆の苔に埋もれたるなどあり。
傍らにわうじ(王子)の岩屋といふあり。ただ松のかぎりある山なり。その中にいと濃き紅葉などもあり。
むげに神の山と見ゆ。

と、花の窟を述べている。
(以上、案内板より)

御門をくぐると、高さ45メートルもの巨巌が目前に聳え立ち、その頂附近にはとても神秘的な造形をした巨岩が坐している。
そしてお網掛け神事にて掛けられた大綱には、榊や日の丸の扇子等が括り付けられており、浜風に揺られて靡いている。

ゴトビキ岩といい、神内神社といい、ここ花窟といい、
熊野には魂が揺さぶられるような磐座が多過ぎる!

花窟とお綱
お綱掛け神事
『日本書紀』に記されていることが今に引き継がれ、2月2日と10月2日には多くの人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。
お網かけは、わら縄で編んだ110尋(約180メートル)の大綱に季節の花、扇を括り付け巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
網は藁縄7本を束ねた物で、花をつけた3つの縄旗が吊るされている。
この縄旗は朝廷から毎年奉納された錦の旗であったが、熊野川の洪水で旗を積んだ船が難破したため、縄でその形を模したのがその始まりといわれている。

三つの飾りは岩に近い方から天照大神、月讀神、スサノオ神の三神を表しているという。
そして、2日に祭事が開催される理由は、旧暦時代、2日とは月のない新月(1日)の翌日で、月の生まれる日。つまり、昼(天照)、月夜(月讀)、闇(スサノオ)の三神が出そろう日からなのだそうだ。

紀の国や 花窟にひく縄の ながき世絶えぬ 里の神わざ
宣長

伊奘冉尊を祀る御幣。
周辺には白石が敷き詰められていて、花窟の穴の中に祈願をこめて白石を奉納すると願いが成就するという言い伝えがあるという。

王子ノ窟(聖ノ窟)
花窟の反対側には王子ノ窟と呼ばれる高さ12メートルの岩窟がある。
太陽を背にして立っている窟の周囲には草や木々が生い茂っていて、花窟とは全く対照的。

火の神・軻遇突智神を祀る御幣。
由緒によれば、「此の神、伊奘冉尊の御子なれば王子の窟という旧藩主に於いて、此の霊地保護のため、寛文九年九月、及び元禄八年十一月四月至限界御定書を下付し、且つ高札を建て殺生禁断を布令せられた。」とある。

花窟最上部
花窟は、日本書紀ではイザナミの亡骸が葬られたとあるが、岩の上部の窪みは人工的に加工されたもので、琉球地方にみられる風葬・鳥葬の跡に似ているという。
もしかしたら沖縄地方、さらに先の南方から黒潮に乗って移り住んだ「マレビト」の墓が起源だったのであろうか。
また平安時代中期の僧・増基法師の紀行文から読み取れるように、弥勒信仰に基く埋経の地だったとのこと。

鬼が城
こういった神話や、地理的条件等から熊野有馬の地は、「隠國」(死霊が集う場所)であり、黄泉國の入口、即ち「根の國」だったと考えられていた。その根幹にあるのが、ここ熊野有馬の『花窟』だったのであろう。

ちなみに、出雲地方での『黄泉の国』は以下リンクを参照ください。
黄泉比良坂 ‐ 「死」の国の入口とナギ・ナミ神話
猪目洞窟 「黄泉の穴」


次回は熊野の山中に坐する未開の神域へ。

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