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関東の古社 楡山神社(武蔵国)

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楡山神社
(埼玉県深谷市大字原郷336番地鎮座)

楡山神社は、埼玉県深谷市に鎮座するお社で、『延喜式神名帳』での「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社。
深谷市一帯の幡羅(はら)郡は北武蔵最大の郡で、大量の湧泉があり古くより水田として造成されていた地だったという。
また、住所名の「原郷」は幡羅郡の中心地という意味だそうだ。

門前には、社名の由来ともいえる樹齢600年のニレ(楡)の巨木があったのだが、現在は残念ながら根を残すのみ。しかし、切幹からは青々と葉が茂っていた。

木の生命力の力強さにただただ感服。

本神社は、伝承によると。孝昭天皇の御代に鎮座といわれており、御祭神は伊邪那美命。
江戸時代には瑠璃光寺を別当とし、「楡山神社」の社名の他に「楡山熊野社」、「熊野三社大権現」などと呼称されていた。
また、鳥(八咫烏)を神の使いとして尊ぶ慣習があり、熊野信仰の影響が色濃い社であるようだ。

楡山神社
楡山神社は平安時代に編纂された「延喜式神名帳」に記されており、楡山の由来は往古この地方この地方一帯に楡樹が繁茂したことによる。正面に樹齢600年の楡の木があり、代々神木とされ、天然記念物として県の指定を受けている。

江戸期、熊野信仰に伴い、「熊野三社大権現」と合祀、幡羅郡の総鎮守として楡山熊野社と称したが、明治になり楡山神社にもどした。
祭神は伊邪奈美命である。

本社後方に塚があり、これを犯した者は災害あるといわれ里人はここを不入の地としたと伝えられる。
里人はこれを守り、鳥を神の使いとして尊ぶ慣習があり、熊野崇敬の遺風といわれている。
文化財は和琴、磐笛、熊野三社大権現の扁額である。
(以上、境内案内板より)

社殿後方には「大物主神社」の看板が建てられ、その先には不思議な形状をした石と祠が賽神のように坐していた。

楡山神社の奥の森は、「里人不入の地」と言われており、かつて、本社後方には洞口があった塚があり、村人そがれを破って入ろうとすると災害が起こる、という言い伝えがあったという。

諏訪神社、春日神社を合祀した荒神社がひっそりと鎮座している。

荒神社、大物主神社以外に、知々夫神社、伊奈利神社、八坂神社、大雷神社、手長神社、天満天神社、招魂社などが境内末社として祀られている。

次回も引き続き武蔵国の古社です。


関東の古社 前玉神社(武蔵国)

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前玉神社
(埼玉県行田市大字埼玉字宮前5450鎮座)

前玉神社は、大小10個の古墳があるさきたま古墳群の一角に鎮座している平安時代の「延喜式神名帳」に「前玉神社二座小」と記されており、埼玉郡の総社とされている古社。

さきたま古墳群については以下リンクで参照ください。
Link→さきたま古墳群

社前には『イヌマキ』と称される槙の大木。

御獄山信仰の奉納植樹の御神木で、推定樹齢600年、樹高20メートル、目通り幹周4.0メートル、根回り5.5メートルを計ります。現存する槙としては埼玉県最大のものです。
樹幹北側の中心部には大きな空洞があり、その中には木曽御嶽神社の石碑が置かれています。
(境内案内板より)

鳥居をくぐり、参道を進むと小高いの丘の上に社殿が築かれている。
小高い丘は浅間塚古墳という墳径約50メートル、高さ8.7メートルの円墳で、埴輪が樹てられていなかった可能性が高いこと、古墳の南西部の絵馬堂附近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、7世紀前半(埼玉古墳群の築造末期)に築かれた古墳と推定されている。

浅間神社
古墳の手前には古墳名の由来となっている浅間神社が鎮座している。
浅間神社は近世初頭、忍城中にあった浅間神社を勧請し、古墳上にある社を「上の宮」、中腹にある社を「下の宮」として祀られていたという。

社殿手前には元禄十年(1697)に奉納された石燈籠。
左右の燈籠には万葉集の歌が刻まれている。

左側の石燈籠

前玉の小埼の沼に鴨ぞ翼きる
己が尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし
(万葉集『小埼沼』)

右側の石燈籠

埼玉の津に居る船の風を疾み
綱は絶ゆとも言な絶えそね 
(万葉集『埼玉の津』)

かつての鎮座地周辺は、利根川(現:古利根川)が南北に走る水運拠点のひとつとされ、沼が広がる地だったようです。

沼辺から見える巨大な古墳群。
大阪堺の古墳群のように、遠方から船でやってきた当時の人々は、さきたま古墳群の規模にさぞびっくりしたことでしょう。

*現在は、江戸時代の利根川東遷により東西に走る流れに変わっています。

前玉神社が最初に祀られた時代については、安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半~500年代前半)ではないかと考えられている。
御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマ…

関東の古社 広瀬神社(武蔵国)

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広瀬神社
(埼玉県狭山市広瀬2-23-1鎮座)

東京都瑞穂町鎮座の阿豆佐味天神社に続いて入間川流域に鎮座する広瀬神社についてです。

広瀬神社は埼玉県狭山市に鎮座するお社で、入間川の畔に鎮座しており、創立は景行天皇の御代(71年~130年)といわれる古社で、延喜式内社である。
鳥居をくぐって立派な参道を歩んでいくと、深い緑に囲まれたお社が姿を現します。

境内には数多くの巨木が生い茂っているが、中でもひときわ目立つのが御神木である大ケヤキ。
圧倒的な存在感、天に貫くように幹を張っている様は、神が降臨する依り代のように神々しい。

廣瀬神社は、社伝によると、奈良県北葛城郡河合町に鎮座している廣瀬神社の神を分祀したことにより始まるとされている。

当ブログLink⇒奈良の社 『水神』 廣瀬大社

そういえば、伊豆国葛城山の麓、狩野川の畔にも広瀬神社という延喜式内社が鎮座している。
主祭神は若宇迦能売命で、合祀神八衢比古命は猿田彦命であり、八衢比売命は天宇受売命のこと、久那斗命も含めると三神とも岐神であるとされている。

廣瀬神社略記
埼玉縣入間郡水富村大字上廣瀬鎮座
祭神
主祭神 若宇迦能売命
相殿神 八衡比古命 八衡比売命 久那斗命

創立
大和時代の景行天皇(第十二代)の御代、日本武尊命東国平定の折、当地が大和の国河合の地に酷似せりと称し、親ら幣帛を奉り、(大和の国の)廣瀬の神を斎き祀りて、武運長久国家平穏を祈誓せられしより創始せり」との社伝があり、創立は、三世紀に遡る。

由緒
「狭山市の社寺誌」において、「当社は、大和朝廷により勅命により官社に列せられた数少ない神社であり、由緒正しく、当時すでに関東において格の高い名神として崇められていた・・・。狭山市の神社の中で最も古く、格式高い神社である。」と記述されている。
主たる記録は次のとおり。

(官社) 『文徳天皇実録』の嘉永三年(850年)六月三日の条に「武蔵の国廣瀬の神を官社に列す」との記述あり。
(延喜式内社) 延長五年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』に「武蔵国四十四座 入間郡茣蓙の内一つ 廣瀬神社」と登録されている。
(県社) 明治六年郷社、同七年県社に列せられた。

左:太鼓楼 右:二宮尊徳像(?)
(主祭神) 若宇迦能売命
(相殿神) 八衡比古命 八衡比売命 

久那斗命主祭神は、水の守り神であり、風雨の調和による穏…

関東の古社 阿豆佐味天神社 (武蔵国)

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阿豆佐味天神社
(東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1008鎮座)

ここ数年、遠方の社巡りに熱中してしまい、近隣のお社巡りを疎か気味になっておりました・・・。
ということで、武蔵国周辺を再び巡ってみたいと思います。

東京都瑞穂町は狭山丘陵の西端に位置している町で、多摩地区交通の要衝。
東西には青梅街道が走り、南北には古くより東山道武蔵道~鎌倉街道、そして日光まで繋がっている千人同心街道が走っているとされ、東西南北の街道が交差するクロスロード。

今回参拝した阿豆佐味天神社は青梅街道沿いに鎮座し、延喜式神名帳に多摩郡八座のうちの一座に列せられている古社。
青梅街道から一本に伸びた参道から一段高い丘に坐している。

阿豆佐味天神社
御祭神 少彦名命 素戔鳴命 大己貴命

阿豆佐味天神社は延喜式神名帳の多摩地区八座のうちの一座に列している社。
社伝によると、寛平4年(892年)に人皇第50代桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜う、武家平氏の始祖)の創建とされている。
本神社の『アヅサミ』の起源は不明だが、一説には「阿豆」は味で弥の形容詞で甘いの意であり、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味とされ、古代に狭山丘陵から流れる湧水・甘い水を祀ったものとされており、かつては味佐弥神社であったのではと考えられている。

境内社
湧水を祀る自然崇拝が起源であったが、時代を経るに従って武蔵国へ進出してきた出雲系の豪族や一門が自分たちの神である現祭神の少彦名命を祀ったり、奈良地方の一族が天孫族の祖神・アマツカミを合祀しアマツカミのヤシロ(天神社)としたり、だんだんと形を整えて現在の「阿豆佐味天神社」の原型が作られたものと推定されている。

鎌倉時代に入ってからは武州村山郷の総鎮守社として拝められ武蔵七党の勇・村山党の武士団よりも厚く尊崇され、村山党の本拠地は当社より西へしばらく行ったところにあり、発祥地の居館跡が今に伝承され「殿ケ谷」の地名の起源という。
その後、天正十二年、慶長三年の修復を経て、享保年間(1716-36)当地方の豪族村山土佐守により、社殿の修復が行われた。北条氏、徳川氏の崇敬も篤く多くの神領地が寄進されたという。

社地裏手にある六道山や箱根ヶ崎周辺には古代遺跡があり、旧石器時代から縄文時代にかけての石器や石斧、土器などが数多く出土されている。
また、裏山には奥宮もあ…

紀州熊野を巡る 神島と南方熊楠

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神島(和歌山県田辺市)

田辺市鎮座の鬪雞神社へ参拝後、余った時間を利用して田辺港へ。
湾内には大小様々な島があるが、その中に『神島』と呼ばれる無人島がある。
古くから神の島と信じられ、今でも事前の許可なくして上陸禁止となっている。

この神の島。
明治末期に起った神社合祀により、島内の森林が伐採される危機があり、これに怒った田辺在住の生物学者で、粘菌の世界的権威であり、かつ民俗学者の南方熊楠は猛烈な反対運動を行い、結果保存されることとなった。

南方熊楠と神島との話はこれだけにとどまらない。
1929年、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に進献した。

その箱は何とキャラメルの空箱!
当時の天皇は現人神として崇められており、あの昭和天皇も「あのキャラメル箱の衝撃は忘れられない」と語ったという。

進献できたことに感激した熊楠は
南方熊楠 
「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇(すめらぎ)のめてましし森そ」
と詠み、それから33年後の昭和37年の行幸で、昭和天皇が神島を望み、熊楠を懐かしんで次の歌を詠まれた。
昭和天皇 
「雨にけふる神島を見て紀伊の國の生みし南方熊楠を思ふ」

木の国~紀州の巨樹を必死に守った南方熊楠は言ってみれば紀州の地霊。

紀州の地霊と現人神である天皇との和合は、記紀神話にて神武天皇が紀州の女王・名草戸畔を滅ぼして制圧したことに始まる『抑圧された歴史』を考えると、新たな時代の到来を告げる象徴的な神事だったにように思う。

ところで、明治末期に行われた『神社合祀運動』により、全国の数多くの神社が取り壊され、鎮守の森として保護されていた木々は伐採され、樹齢の古い御神木は高値で売買された。特に熊野地方の神社合祀は凄まじく、熊野古道の王子社をはじめ数多くのお社、アミニズム信仰の社等が取り壊されてしまった。

その中、南方熊楠は神社、ひいては祭礼習俗を守るために神社合祀の反対運動を行ったものの、多くの王子社が合祀されてしまった。
しかし、ここ神島や継桜王子の野中の一本杉、那智原始林をはじめ世界遺産~熊野古道に保存された社叢は熊楠の功績であるといっても過言でないらしい。
(彼の破天荒な人生はとてもとてもおもしろいのですが、あまりにエピソードが多いので省略します・・・)

*ちなみに、南方熊楠について分か…

紀州熊野を巡る 鬪雞神社(闘鶏神社) 新熊野雞合大権現

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鬪雞神社
(和歌山県田辺市湊655鎮座)

熊野巡りを終えて空港への帰路の途中、折角だからと田辺の町を立ち寄ってみることに。
田辺は『口熊野』と呼ばれ、熊野古道中辺路、大辺路の起点。

南方熊楠の生家などは後程UPすることにして、今回は田辺に坐する鬪雞神社へ。


社伝によると允恭天皇八年(824年)九月熊野坐神社(現:熊野本宮大社)より勧請したといわれているが、白河法皇の頃、熊野路に強盗多く行幸を悩ますため、熊野三所権現をこの地に勧請し、三山参詣に替えたという伝承もある。
さらに紀伊続風土記には「熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し、新熊野と称す」ともある。

また、社殿背後には仮庵山という神山があり、古くから稀人神の来臨する聖なる山として崇められ、弥生時代の土器が出土した遺跡があることから古代祭祀場または、かつての風葬地だったとも考えられている。

新熊野雞合大権現 鬪雞神社
祭神
本殿 伊邪那美命
西殿 事解之男命、速玉之男命
上殿 天照皇大神、伊邪那岐命、宇賀御魂神
中殿 迩々杵命、火々出見命、天乃忍穂耳命、鵜草葺不合命
下殿 火産霊命、稚産霊命、弥都波能売名、埴山比売名
八百万殿 手力男命、八百万神
藤厳神社(摂社) 田辺初代藩主安藤直次公
雞姫弁財天(末社) 市杵島姫命、玉置神社(末社) 手置帆負命 など

創建
人皇十九代允恭天皇八年(419年)九月、熊野権現(現熊野本宮大社)を此の地に勧請し、田辺の宮と称した。
後白河天皇の御代(1100年頃)、熊野三所権現を此の地に勧請し、三山御参詣に替える。
近衛院久安三年巳(1147年)、別当湛快の時、新たに天照皇大神以下十一神を勧請し新熊野権現と称す。

左:玉置神社 右:弁慶社
社号
鬪雞神社の社号の由来は、源平合戦の際に源氏につくか平氏につくか思案した別当湛快が、神前で赤(平氏)と白(源氏)の鶏を合せたところ赤鶏が白鶏を見て一番も闘わず逃げたので源氏に味方したと言う故事により、新熊野雞合大権現の呼称が生まれ、明治維新の神仏分離令により鬪雞神社と改称され現在に至っている。
社格
明治六年村社 同十四年二月県社、昭和四十六年七月 別表神社(旧官国幣社)に列格。

仮庵山と南方熊楠
本殿裏の神山で、古代祭祀跡指定地。
社伝によると、うっそうとした自然林で巨大な楠が、大きく枝を広げていたというが明治の頃に枯損木と偽り切り倒さ…