30 March 2013

「カラス」の社 香良洲神社

Location 日本, 三重県津市香良洲町高砂3675
香良洲神社
(三重県津市香良洲町3675鎮座)

鳥居と正面
猿田彦命、日本武尊ゆかりの地に続いて、今回は津市雲出川河口にある三角洲に鎮座する香良洲神社について。

本神社の祭神は、稚日女尊。
天照大御神の御妹神ということと、伊勢神宮同様に式年遷宮(20年毎に遷座)が行われることから、伊勢神宮所縁のお社と思いきや、そういう訳でもなく、飛鳥時代に生田神社から勧請されたもの。

境内
さてさて、鳥居をくぐり参道を進むと、まるで伊勢神宮の別宮のような佇まい。
境内も広々としており、木々も豊富。

拝殿
香良洲神社由緒
祭神 稚日女尊(わかひるめのみこと)
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第二十九代欽明天皇の御代(飛鳥時代)生田の長峡(現在の神戸市生田神社)より勧請申し上げおまつりした神社です。


欽明天皇の御代にこの伊勢の海の浜洲で御神火が毎晩みえるので里の人々が畏れ騒ぎも一通りでなく、これを知った青木という人が神の御心を拝んだところ「吾は生田の稚日女神である。姉神の在す神風伊勢のこの地に鎮まりたいとお告げがあり、生田より御勧請申し上げ社を造営し祭を行い長くこの地に奉斎することになりました。

伊勢の神宮と同様、二十年毎に式年遷座を行っております。
(神社案内板より抜粋)

左 磐座 右 神馬舎

門前に置かれていた意味ありげな巨岩。
神馬舎の白馬像が妙にリアルです。

小香良洲社
この社は、小香良洲社。
稚日女命の荒魂と香良洲町内11社から合祀した神々を祀るという。
尚、ウィキペディアによると、2012年8月に落雷により本殿が焼失したらしく、現在はこの小香良洲社が仮本殿とされているらしい。

神宮遥拝所
これにて伊勢国のお社巡りは終了。
次回より、いよいよ念願の『お伊勢参り』です。

28 March 2013

日本武尊御陵と思国歌 能褒野王塚古墳と白鳥塚古墳

Location 日本, 〒519-0213 県道639号線

日本武尊御墓参道の石碑
御幣川と安楽川の合流点に近接する
標高45mの段丘端部に所在する前方後円墳

今回は、能褒野の地で薨去なされた日本武尊の陵墓とされている能褒野王塚古墳と白鳥塚古墳の写真と、この地で詠まれた思国歌(国偲び歌)と、古事記記述の倭建命の薨去について。

北勢地方最大規模の古墳で
4世紀末頃の築造
思国歌
ヤマトタケルは東国征伐の後、尾張の国に戻り、火上の里の館(氷上姉子神社)に留まり、宮簀媛命と結ばれた。
ところが休息する間もなく、近江国伊吹山に棲む神ありと聞かれ、その賊徒平定のため神剣を媛にあずけて、伊吹山に向かった。

しかし、近世においてはこの古墳が
日本武尊の墓という認識は
ほとんどなかったものとみられる。
イノシシの姿をした山の神に祟られ身体不調となってしまい、居寤清水(いさめのしみず・・・関ヶ原の玉倉部の清水)を飲んで少し体調が回復したものの、伊勢国の杖衝坂を越え、三重村に着いた時には、「三重にくびれた餅」のように足が腫れ上がってしまった。

能褒野神社参道。

そして、能褒野に到達したときに、故郷(大和)を偲んで思国歌(くにしのびのうた)を歌った。

やまとは 國のまほろば  たたなづく 青垣 山隠れる やまとし美し
命の全けむ人は 疊薦 平群の山の 熊白檮が葉を髻華に挿せその子
愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も
孃子の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや


能褒野神社境内


(現代語風訳)
大和は最も良い国、青垣のような山に囲まれ、大和は何と美しい国。
生命に満ちた人々よ、大和の国の平群の山の立派な樫の木の葉を髪飾りにしなさい、お前よ
おお、懐かしい。我が家の方から雲が立ち昇る。
姫の床にあたりにわたしが置いて来た太刀。
ああ、あの太刀は・・・。

と詠み、ついにヤマトタケルは息を引き取った。

能褒野神社 社殿


ヤマトタケルの死は早馬により大和に伝えられた。
后や御子たちは伊勢の能褒野へ降り、御陵を作り、泣きながら歌を歌った。

なづきの田の稻幹に 稻幹に葡ひ廻ろふ 野老蔓
(御墓の周りの田の稲の茎にとりつく山芋のつるのように 私はとりついていたい。)

白鳥塚古墳 石碑

そのとき、ヤマトタケルは大きな白鳥となり大空へ羽ばたき、海辺に向かって行った。
后や御子は足を傷つけながら白鳥を追いかけ、歌をうたった。

淺小竹原 腰なづむ 空はいかず 足よ行くな
(笹しげる篠原を行こうとしても腰にまかれて足をとられるばかり、空を飛んでいきたくても足で行くしかありませぬ。)

白鳥塚古墳は、帆立貝式前方後円墳で
5世紀前半に築造された鈴鹿川流域の主張の墳墓

后達は海へ入り、
海處行けば 腰なすむ 大河原の 植ゑ草 海處はいさよふ
(海を行こうとするならば、足をとられ 大河の草のように海を行こうとするならば、ゆらゆらするだけ)
とうたった。

白鳥塚古墳

濱つ千鳥 濱よは行かず 磯傳ふ
(磯の上に白鳥が降り立った時にも
浜の千鳥は浜からは行かずに荒磯づたいに飛んでゆく。)

飛び立った白鳥は河内の国の志幾(しき)にとどまった。
そこでその地にヤマトタケルの御魂を祀るための墓を作った。
この墓を白鳥の御陵という。

しかし、程なく白鳥は大空高く飛んで行ってしまったそうな。

~おしまい~

白鳥塚古墳の頭上で
カラスの大群が円を書いて飛んでいた。

次回は、『カラス』の名を冠したお社です。


26 March 2013

日本武尊終焉の地 加佐登神社

Location 日本, 三重県鈴鹿市加佐登町2010
加佐登神社
(三重県鈴鹿市加佐登町2010鎮座)

加佐登神社が鎮座する鈴鹿市西部(能褒野)は、記紀神話にて日本武尊(倭建命)が薨去なされたとされる神話の地。
そのとき日本武尊が詠みあげた「思国歌(国偲びの歌)」と、それにまつわるお話は次回の白鳥塚古墳と能褒野王塚古墳の項で書くことにして、今回は白鳥塚古墳の近くに鎮座する加佐登神社について。

加佐登神社は、御笠殿社と呼ばれ、日本武尊の杖と笠を御神体とするお社。
高宮資料館前の駐車場にレンタカーを止めて、参拝することに。

参道
参道の階段から。
木漏れ日と神社独特のヒンヤリとした感じが何ともいえない。

境内
境内はとても開放的で、心落ち着く。
御朱印を頂こうとしたら宮司さんに色々と話かけられて、気分よく参拝することができた。

拝殿
加佐登神社由来記
祭神
日本武尊、天照大御神(他十四神 明治四十一年合祀)
由来
古事記・日本書紀によると、日本武尊は第十二代景行天皇の皇子でした。生まれつき武勇にすぐれた尊は若くして九州の熊襲、出雲を平定し、つづいて東国の蝦夷征伐へと旅立ちます。
尊は、各地で戦い勝利を続けましたが、伊吹山の戦いで傷つき病におかされ動かぬ身体を引きずってこの能褒野に辿り着き遙かに大和を望んで短い生涯を終えたと伝えられています。

拝殿内部
大和は国のまほろば たたなずく青垣 山こもれる大和しうるわし


本殿北の白鳥塚は、県下最大の古墳で(平成十七年の調査により、帆立貝式の前方後円墳であることがわかりました)、日本武尊の御陵とされ本居宣長・平田篤胤らによって延喜の諸陵式の能褒野墓と考えられました。
この白鳥塚のそばに、尊が死の間際までもっておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが、加佐登神社の始まりです。明治以前は御笠殿社と称され、諸病平癒の霊験あらたかで、人々の篤い信仰を受けてきました。


本殿

大祭は、日本武尊の命日と伝わる四月八日。
古代、この地は景行天皇が行在所を置かれたことから高宮の里とも呼ばれ、附近には綺宮跡や、奉冠塚、奉装塚など多くの古い塚が残っており、神苑は県下有数のつつじの名所として知られています。
(以上、神社案内板より)


二体の日本武尊像

さすが日本武尊所縁の社。
木彫りと石像の二座が祀られていた。

社殿奥の祠

しっかりとした石垣が築かれており、かつてこの座に何か奉られていたのかな?

次回は、本神社奥にある白鳥塚古墳と能褒野王塚古墳、そして古事記の思国歌についてです。

24 March 2013

伊勢國二宮 上げ馬神事の社 多度大社

Location 日本, 三重県桑名市多度町多度1681
多度大社
(三重県桑名市多度町多度1681鎮座)

多度大社は、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)下流の高台に坐し、明神大社・伊勢国二宮に列せられており、多度山(標高403メートル)を御神山としたお社。
多度山は、濃尾平野の西側を走る養老山地の南端にある山。
その麓に多度大社は鎮座している。

大鳥居
多度大社は、天照大御神の御子神 天津彦根命を御祭神とした本宮 多度神社と、天津彦根命の御子神・天目一箇命を御祭神とした別宮 一目連神社から成るお社。
創祀は不明だが、御神山である多度山には数多くの磐座や御神石があり、神代の古と推定され、五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が造営されたという。

社頭
参道の階段の左脇にある土の坂は、「上げ坂」と呼ばれ、多度祭りの上げ馬神事のときに、神馬が駆け上がる坂のこと。


上げ坂と御神馬・錦山号

実際に上げ坂を見ると勾配がキツく、頂の直下は土壁のように切り立っている。
以前はもっと長い坂路だったという。
御神馬が白馬なのは、「多度大社には1500年前から白馬が棲む」といわれていることかららしい。

摂社 新宮社
上げ坂を登ると、正面に摂社 新宮社が鎮座している。

摂社 新宮社
御祭神 天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂

多度大社は、元甕二年(1571年)織田信長の兵火に罹り、美濃國の赤坂山に避難されたは、その凡そ30年後、慶長年間に桑名城主本多忠勝公により復興が計られ御神体は先ずこの神殿にお鎮まりになった。
その日が十一月一日に当り、馬に野って還御されたという故事に因んで例祭(発向祭)には沓形(馬蹄形)の餅をお供えし祭典の後、古例餅まきを行う習わしがある。

緩やかな登り坂を越えて、境内の中を進む。
とても広々として、清々しい印象。

於葺門
於葺門と呼ばれる神門をくぐり、
多度山から流れる落葉川の清流で身の穢れを落していよいよ本宮へ。

多度神社
多度神社 天津彦根命
天照大神の第三の御子で神代の昔から御鎮座になり、雄略天皇の御代に神殿が創建せられた。
北伊勢地方の文化の発達、産業の興隆に力を尽され御子孫も広くこの地方にご繁栄になって、その総氏神として五穀の豊穣、漁獲の豊権に厚い御守護を加え給い、殊に雨乞いの神として遠近に信仰する人が多い。
御例祭は五月四日・五日の両日で古くより「上げ馬」「やぶさめ」等特殊神事が行われ、その年の作柄の豊凶を占うという意味にて特に民衆の熱心な信仰がある。

一目連神社
別宮 一目連神社
御祭神 天目一箇命
多度神社の御子神で御父 天津彦根命を扶けてきた伊勢地方を開拓せられ、又、わが国金属工業の祖神でもあり、天変地異ある毎に現に御霊を現して諸難を救い給い、時に応じて龍神となりて天翔り旱天に慈雨を恵給うと云う信仰もあって、古来神殿には御扉を設けない。

本宮近くにあった御神石と多度山から流れ落ちる滝

銅山などの精錬の際、片方の眼で炉の炎の加減を絶えずしかめる。長年にわたって炉の炎の具合を見つめていると、いつしか視力が弱って片目のつぶれることがよくあった。金属器がこの上なく貴重であった時代、それを作り出す技術の持主は神と崇められたが、一つ目であったことから天目一箇神が誕生した。
(谷川健一著「日本の神々」より) 
そのことから、金属興業の祖神としても崇められているのかな。

本宮から境内を眺める。
滝のけたたましい音、鬱蒼とした鎮守の森に手入れされ綺麗な社殿。
とても心地良いお社です。

末社 皇子社 (左) 摂社 美御前社 (右)

摂社美御前社の御祭神は、市杵嶋比賣命
末社皇子社の御祭神は、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、天之菩卑能命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理比賣命、多岐都比賣命。

つまり、記紀神話におけるアマテラスとスサノオの誓約の時に生まれた神々=多度神社の兄弟神を祀っている。

境内の雰囲気も素晴らしく、心安らぐお社でした。

次回は、日本武尊所縁の地です。

22 March 2013

サルタヒコの社 阿射加神社 (大阿坂)

Location 日本, 三重県松阪市大阿坂町670
阿射加神社
三重県松阪市大阿坂町670

引き続き松坂市に鎮座する阿射加神社についてです。
前回は小阿坂町でしたが、今回は大阿坂町の阿射加神社です。

左:阿射加神社社標  右:白米城址石碑

参道入り口には阿射加神社の社標と白米城址の碑が立っている。
白米城とは、日本各地にある城に纏わる伝承で、かつて阿射加神社が鎮座していた阿坂山頂に築いた阿坂城についてのお話。

室町幕府軍が阿坂城を包囲し、当時の城主北畠軍が籠城したが、兵糧攻めにあってしまい水の補給路が立たれてしまった。
城内にはほとんど水は残っていなかったが、北畠軍は敵を欺くために白米を馬の背に流して城内に水が豊富にあるように見せかけた。
これを見た幕府軍は北畠軍がいまだ豊富な水を保持するのかと大いに驚き、水断ち作戦を諦め、包囲を解除したとされるお話。

全国の城で同様の話があるようですが、ここ阿坂城のお話が原形とのことらしい。

社頭
参道を進んで、神社へ。
鬱蒼とした森が広がる社頭の雰囲気が実に素晴らしい。

禁殺生の碑
鳥居脇に立つ『禁殺生』の石碑。
享保甲辰年(1724)紀州家より禁殺生の石碑建贈されたもの。

小阿坂の阿射加神社でも同じ石碑が立っていたが、
本神社では簀子に覆われて丁重に保存している。

手水

阿射加神社は、近隣(大阿坂町と小阿坂町)に二社存在している。
鎮座地も1キロも離れていない距離にあり、御神山である阿坂山(現:桝形山)を守護するかのように南北に鎮座している。
また近くには伊勢街道が走っている交通の要衝であり、向山古墳や西山1号墳、筒野1号墳、錆山古墳などの前方後方墳のほか、前方後円墳の上野1号墳、大型円墳の深長古墳などもあり、伊勢の古代史を語るうえで重要な地域となっている。

参道

阿坂という地は、古事記において、本神社の御祭神である猿田彦命の神話の舞台地。

『天孫降臨の後、サルダヒコは伊勢国に戻ったが、阿邪詞(あざか)で魚をとっていて、ひらぶ貝に手を挟まれて溺れ死んでしまった。』

と、記されている。(かなり意訳ですが・・・)

溺れている時に猿田彦神の3つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が化生して当社祭神の3座となったともされている。

参道途中にあった二本の御神木
延喜式 阿射加神社 由緒
主祭神 猿田毘古大神

由緒
垂仁天皇十八年、皇女倭姫命が天照大神の神霊を祭る地を探し求める途中、阿佐賀の地を訪ね荒ぶる神、伊豆速布留大神を大若子命をもちて鎮めさせ、阿佐賀山の嶺枡形地に社殿を造り、種々の幣物をもたらし祭ったのがこの神社と言われる。(神道書、倭姫世紀)

境内
阿射加神社は平安朝時代から社格の上からも調停からは各の崇敬を受け、866年(貞観八年)従三位を伊勢国阿耶蚊賀神に授け奉ると昇叙の記が見られ第六十代醍醐天皇延長五年(890)延喜式内大社の核に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿射加神社三座並明神大なり、285座の内となる猿田毘古神座阿耶詞と古事記にもみられる古社である。

神橋
伊勢国北畠満雅 慶永年中阿坂山に砦を築く時に社地を山より今の地に遷したと記される。
享保甲辰年(1724)紀州家より禁殺生の石碑建贈される。
明治六年村社に列せられ、同三九年三重県告示をもって神饌幣帛料供進指定社となる恒例祭多米志祭が一月に行われ、稲作の作柄を占う粥試が行われる。

神社の右側には龍天大明神の起源と言われる宮池をもつ幽諸ある神社である。

主祭神 
猿田毘古大神 (伊豆速布留大神、龍天大明神)
底度久御魂、 都天多都御魂、 阿和佐久御魂 一殿三座並明神大
(以上、神社案内板より抜粋)

参籠所?
長い参道を進んでいくと比較的新しめな参籠所のような建物が鎮座していた。
その先を進むと本殿が坐している。

社殿
左右の狛犬と白い岩で守護された社殿の先には、
棟持柱を持つ唯一神明造の本殿が坐している。
しかし、本殿の前にブルーシートが覆いかぶさっていた。

社殿右脇にある垣内摂社。
龍天大明神の起源と言われる宮池があったかは未確認・・・。

しかし、摂社の周りには、
興味深い形をした石が注連縄と紙垂を付けて祀られていた。

まずは、蛇(龍)の頭に似た岩。

そして、鳥(またはやっぱり蛇・龍)の形をした岩。

こちらは人の顔に似た岩。
大きな鼻と彫の深い顔立ちからサルタヒコの化身なのか?

それとも、3つの岩は、
猿田彦神の3つの御魂である
底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂を表しているのかな。

木漏れ日が鳥居を照らして幻想的。

大阿坂と小阿坂の阿射加神社は、
共に神秘的で、心が落ち着く神的空間でした。

数多くある伊勢の社の中でも、
最も素晴らしいお社の一つだったと思っております。


次回は、阿射加神社と共に伊勢国の明神大社であり、伊勢国二宮の多度大社です。