18 December 2013

関東の古社 伊香保神社(上野国)

Location 日本, 群馬県渋川市 石段街
伊香保神社
(群馬県渋川市伊香保町伊香保1鎮座)

石段街
上州屈指の名湯のひとつ、伊香保温泉。
この地にはかつて明神大社に列せられ、上野国三宮になった伊香保神社があります。
(ちなみに上野国一宮は、一之宮貫前神社、二宮は二宮赤城神社です)

本神社はかつては山岳信仰の社で「いかつほの神」(榛名山)を祀ったお社。
有名な石段街を登った頂上に鎮座しております。

拝殿
御祭神は大己貴命と少彦名命。
創建は、社伝によると、第11代垂仁天皇朝時代(紀元前29~70)の開起。
略記には『字香東』、延喜式では『伊加保』、上野国神名帳では『伊賀保』とあり、現在の伊香保は恐らくこれらの当て字なのでしょう。

氷柱が張った本殿
伊香保神社略記
所在地
字香東 現、群馬県渋川市伊香保町伊香保1
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
例大祭
9月19日。第五十四代仁明天皇の承和二年(西暦835年)九月十九日大社の社号を授けられたことに由来している。
本殿 拝殿
伊香保温泉街365段の最上段に鎮座し、南に榛名山を配し、北東には、越後連山が眺望される位置にあり、明治十一年(1877年)春、伊香保大火により、焼失後仮宮として建立、現在に至る。

境内社
由緒 沿革
第十一代垂仁天皇朝時代(紀元前29~70)の開起と伝えられ、第五十四代仁明天皇朝(833~850)承和2年(835年)9月19日名神大社に15階の位階については、承和6年(839年)6月従5位に列す。累進して第五十七代陽成天皇朝(876~884)元慶四年(880)従4位を授けられる。第九十一代後宇多天皇朝(1274~1287)建治元年(1275)正一位に列す。

第六十代醍醐天皇(897~930)の延喜五年に編纂が始められた法律執行細則集の中の神名帳に、伊香保神社も記載され、朝廷公認の神社となった。平安時代のこの延喜式神名帳には、全国2861の神社が登場、これらは、全て歴史のある神社で式内社と呼ばれた。なお延喜式神名帳は、延長五年(927)に完成した。

神楽殿と石燈籠
その後、鎌倉時代初期、各国ごとに一位の神社を定め、大和国ー大神神社、信濃国ー諏訪大社などのように「一宮制」ができたが、これに準ずる二宮、三宮・・・を定める国もあった。上野国は、十二宮を定め伊香保神社は、一宮貫前神社、二宮赤城神社、についで、三宮の神社となった。

明治維新後、太政官布告によって、あらたに近代社格制度が敷かれ、政府管轄の神社(官幣社)、地方官管轄の神社(国幣社)の次に、地方公共団体管轄の神社(府県社)などができ、伊香保神社は県社を賜ることとなった。
(以上、境内案内板より)

小野子山
宿泊した温泉宿からは上州の山々がよく見えました。
(ちなみに赤城山はガスがかかっていて、見えませんでした・・・)


13 December 2013

関東の古社 大国神社(上野国)

Location 日本, 群馬県伊勢崎市境下渕名
大国神社
(群馬県伊勢崎市境下渕名2827鎮座)

大国神社は上毛街道(国道17号線)沿いにある社で、旧境町に鎮座している。
祭神は大国主命で、配祀神として、丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命を祀っている。

立派な拝殿
創始は垂仁天皇九年で、天皇の勅命により奉幣使として当地に着いた百済車臨によって建立されたという。
その後、丹後国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀したので、当社を「五護宮」又は「五后宮」、「第五姫大明神」とも称されていたという。

渡来人が拓いた地域に建立されたと思われる社。
しかし、何故、丹波道主王命の子(渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命)がこの地で配祀されているのであろう?

上野国式内十二社大国神社縁起
境町大字下渕名字明神縁起

祭神 大国主命
配祀神 丹波道主王命の子 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁天皇后真砥野姫命、筋瓊入媛命
外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞鳴命、事代主命、旧八坂神社祭神

本殿
延喜式神名帳に上野国大国神社あり。上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。

縁記に曰く人皇第十一代垂仁天皇の九年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず、天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ、東国には百済車臨遣はされて、車臨この地に来り老松の樹下に宿る。之れ即ち御手洗の亀甲松であった。
偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふた叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。
汝は誰だと車臨容を正して「吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である。願くは国家の為に大難を救助し給へ」と翁唯々と答ふ。

言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
因って此の郷を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。

社殿に掲げられてた扁額
仝年十五年丙午の年九月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した。
此時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内 大須賀左内 生形権真人 石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。

後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅を奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。
文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝四十二年二月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。

世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は貮千四百七十六坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云え。
社前は延徳二年庚戌四月十六日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、元御手洗の社前より移したものといふ。
(以上、境内案内板より)

社叢
さて、境内案内板による略記を読んでも、いまいち・・・分かりづらいので、少し意訳に挑戦してみました。(文責は負いませんのであしからず)

『垂仁天皇九年四月から日照りが続いて干ばつになり、多くの家畜が飢え死になり、天皇は深くこれを憂い諸国の神社に奉幣し、東国には百済の車臨が遣わされた。

ある早朝、池で白髪の翁が御手洗池で手を洗うのを見て・・・
『誰ですか?』と、車臨が質問すると、
翁は『我は大国主命である。貴様こそ誰だ?』と尋ねると、
『私は天皇の勅命を受けて、雨乞い、疫病を平癒するために奉幣に遣わされた百済車臨です。(大国主命よ)願わくは国家の為に、この大難を救いくださいませ」と、翁に唯々と答えた。

社叢の先には石祠が。

その裏には『郷社 祭神 大国主命』
と書かれた社標が立っていた
すると、翁の姿は消えて、しばらくすると風が吹き、恵みの雨が激しく降り、翁がいた場所に大きな池ができた。
よって、この地を渕名と呼ぶようになり、草木は蘇えり、疫病もなくなり、多くの作物が実り、安穏となった。
天皇は深く車臨を讃え、左臣の位とこの地を授けて、大国神社をこの地に祀ったとさ・・・。』

・・・如何でしょうか?

大国神社の石幢
そして、この石幢は、縁記に出てくる御手洗池畔で出土されたと伝わる「大国神社の石幢」

大国神社の石幢
村の人たちが「御手洗の石燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。彫られた銘文により室町時代の延徳二年(1490年)に作られたものとされている。
(境内案内板より抜粋)

見事な社殿に、緑深い社叢、そして興味深い縁起。
長い歴史を感じることができる古社でした。

次回は上野国~温泉の社です♨

8 December 2013

関東巨石の社 産泰神社(上野国)と巨大な磐座群

Location 日本, 〒379-2102 群馬県前橋市下大屋町 産泰神社
産泰神社
(群馬県前橋市下大屋町569鎮座)
神沢川
産泰神社は上野国(群馬県)を代表する独立峰である赤城山を水源とする荒砥川の支流、神沢川沿いに鎮座しており、二宮赤城神社の真北に位置している。
ちなみに、境内の西100メートル先には伊勢山古墳があり、附近はかつての居住地だったと推測できる。

社頭
小高い丘の頂に鎮座しており、周囲は緑深い社叢に覆われている。

神門
神門は天保四年に建立されたもの。
門の先には壮麗な拝殿が顔を覗かせている。

拝殿
神門の先には、とても壮麗な社殿が坐している。
玉砂利がきれいに掃かれていて、実に心地良い神的空間である。

本神社の御祭神は大山祇命の娘である木花佐久夜毘売命。
記紀神話での火中説話から『安産の神』として崇められており、社名にもその所縁が現れている。
江戸時代以降、安産祈願のため、穴の開いたヒシャク(ヌケビシャク)を奉納するのが慣例となっている。

また、建立は社伝によれば履中元年とされているが定かでない。

扁額と拝殿内部
産泰神社
この神社の創建は、社伝によれば履中元年とされているが定かでない。しかし、社殿は以後に壘々としている巨石群から、神社信仰の初現形態の一つである巨石崇拝にその起源があるとみられ、歴史の古さがしのばれる。
安産を祈る者が、軽くヌケル(生まれる)ようにと底を抜いたヒシャクを奉納するようになったのは、江戸時代以降のことで、前橋、伊勢崎などをはじ県下一円の人々から、安産の神として篤い信仰を受けた。特に、前橋藩主酒井我雅楽頭は、社殿の造営をするなどその信仰著しいものがあった。

拝殿の美しい装飾
酒井氏の造営になた社殿は、多くの彫刻で飾られ、内部格天井には、酒井抱一が描いたとされる極彩色の花鳥図もある。数ある社宝のうち八稜鏡は、平安時代のもので、前橋市の重要文化財に指定されている。
また、四月十八日例祭の際に奉納される太々神楽も前橋市の重要無形文化財に指定されている。
(境内案内板より)

本殿
本殿は宝暦十三年(1764年)に建立されたもので、拝殿、幣殿とともに県重要文化財に指定されている。
周囲の(いささか)辺鄙な環境の中に、このような壮麗な社殿が鎮座していることに驚き。
きっと、上野国周辺の民に篤い尊崇されていたのであろう。

神楽殿
拝殿脇にある神楽殿で、明和元年(1764年)の建立とされている。

左:金刀毘羅宮  右:末社群

境内奥には大物主命を祭神とする金刀毘羅宮、その脇には末社群が。
小さな石祠にも社標が掲げられていて、とても大切に扱われている。

磐座群
本殿の背後に進むと巨大な磐座群が姿を現す。
この磐座は由緒によると、約13万年前に赤城山で発生した『石山土石なだれ』により出現したと言われており、古代より神々が鎮まる磐座として信仰されていたとされる。

鎮座地は赤城山を仰ぎ見る場所に位置しており、かつては『赤城山の神』を迎え入れる磐座として崇められていたのであろう。
また、「榛名山の神」を祀る榛名神社にも巨大な磐座が数多く坐している。

先の雷電神社の磐座同様に、上野国(群馬)には巨岩信仰が根強いようだ。

ここの磐座上下部二か所に「胎内くぐり」という岩があり、妊婦がくぐれば安産になると言われていたが、危険な場所であるため現在は立入禁止となっています。

神門より外を眺める
本神社はとても静かで、境内もとても大切に手入れされており、参拝して心地よくなった。
また、苔に生した磐座もとても美しく、『神が坐する場所』に相応しい地だったと感じました。

次回も引き続き上野国に社についてです。

御朱印

5 December 2013

関東巨石の社 七ッ石雷電神社の磐座(上野国)

Location 日本, 群馬県前橋市粕川町深津
七ッ石雷電神社
(群馬県前橋市西大室町448附近鎮座)

社頭
赤城山南麓には産泰神社内の磐座をはじめとして、
磐座等を祀った数多くの祭祀遺跡があったとされ、
近隣の西大室丸山遺跡の祭祀場跡からは
土器や剣、そして勾玉等の石製模造品などが数多く発掘されている。

扁額
ここ七ツ石雷電神社もまた、
巨大な磐座を御神体して崇める原始信仰の名残が残る社です。

参道
鳥居をくぐって小高い丘に通じる一本の道を進む。
参拝、というよりショートトレッキング的な気分。

しばらく進むと朽ち始めている覆屋のような建物が。

磐座
覆屋の奥には巨岩と、その上に小さな石祠が祀られていた。

本神社の御祭神や由緒等は一切不明。
しかし、神秘的な形状をした磐座を眺めていると、
赤城山信仰に関係あったのでは?と思いたくなる。

磐座より「参道」を望む。

次回は、磐座群で有名な産泰神社です。

1 December 2013

関東の古社 二宮赤城神社(上野国)

Location 日本, 群馬県前橋市二之宮町886
二宮赤城神社
(群馬県前橋市二之宮町886鎮座)

常総地域に続いて少々上野国(群馬県)周辺のお社について。
群馬県で最もシンボリックな山といえば、広い裾野を持つ雄大な独立峰である赤城山に相違ない。

その赤城の神を祀った二宮赤城神社は明神大社(論社)に比定されている古社で、創建時期は不詳。ただし、社伝では人皇十一代、垂仁天皇の御宇に創建されたと伝えられている。

参道
鳥居をくぐって参道に入る。
苔が生した石畳が何とも趣を感じます。

左:鳥居脇の燈籠 右:参道脇の道祖神

赤城山の麓に位置する本神社の周辺には荒砥川や粕川といった赤城山を水源とした河川が流れ、二子山古墳をはじめとした遺跡が数多く点在していること、豊城入彦命を祖とする上毛野氏の本拠地であったことから、『赤城山の神さま』を畏れ祀った赤城信仰の中心地だったのであろう。

参道の先には朱色の神橋が架かっている。
そして橋を渡って随神門をくぐった先には境内が。

さて、本神社が「上野国二宮」となった由縁は、由緒書きによると、当時一之宮であった赤城大明神(赤城神社)が、絹織が上手で財の君であるこの女神を他国へ渡してはならないと、女神(一之宮貫前神社)に一之宮を譲ったという話がある。
そのことから、貫前神社は帰化人の神で、本神社(赤城神社)は古来より続く民衆に崇敬されていた土着信仰の社であったとのこと。

拝殿
随神門の先には広々とした境内に立派な社殿がデンと構えている。

由緒
創立年代は不詳。社伝では人皇十一代、垂仁天皇の御宇に創建されたと伝えられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。

本殿
赤城神社に関する文献の初見は「続日本後記」承和六年(839)で上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三大実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けが行われはじめましたが、当社は上野国の二宮として現在に至っています。

又、次のような説話もあります。
あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したおで思案の末、貫前の神は外国から来て機織りが上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。そこでこのような技術をもった神が他国へ移っては困るので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
つまり貫前の神は帰化人の神であったとみることができます。それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語ってます。

神楽殿
御祭神 大己貴命など
相殿 大山祇命、他八神
境内末社 日枝神社、他三十四社
特殊神事 
御神事 (三月と十一月下午日)
御神幸にさいして、深夜萱矢千本を射て悪気邪神退治を行う
御神幸 (四月と十二月上辰日)
三夜沢の赤城神社へ当社の御神体が渡御される。
(以上、案内板より)

味わい深い社務所
当社は第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」 を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝えられる古社である。
特に、古代豊城入彦命を始めとした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝えられている。
承和六年(829年)に従五位下に叙されて官社となり、「延喜式」神名帳にて上野国十二社中の名神大社となった。

 左:秋葉神社の祠 右:文化財の宝塔

長元元年(1028年)頃の上野国の国司文書の中に正一位赤城大明神、上野国神名帳には上野国二宮赤城大明神等の神位、神階が記録されている古名社であった。
永承四年( 1049年)には、日本全国の諸社の中から五十五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社といて、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊ノ骨片、現存)が奉納されていたのである。

本殿裏手には数多くの祠が祀られていた

鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(1194年)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。
戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢ニ依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失い衰微した。天正十八年(1590年)北條氏滅亡後、 領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府ノ天領代官 藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた。
そして赤城南麓地帯の関連神社の中心的役割を果していった。

(以上、境内案内板より意訳・抜粋)

とても物静かで美しい古社。
赤城の神さまを祀る里宮として相応しいお社でした。

次回は二宮赤城神社近隣の磐座信仰のお社です。